卓袱台

12月 13th, 2009 卓袱台 はコメントを受け付けていません

 引き戸を後ろ手に閉めると、金属質な籠りの中、植物が鼻孔から瞳の奥へ薫り差し瞼が 潤んだ。河原の土手をダンボールで滑り落ち、笹の繁みの中で緑色が滲んだ膝小僧を頬に すり寄せた身体の形が皮膚の下に弱く広がった。深く吸い込んでから呼吸を整え、目を凝 らしたが、店の中にはそれらしいものは見あたらなかった。  
 雨の残りが俄に降って、駆け込むほどではない軽いものだったが肩は濡れていた。知ら ぬうちに身体に染みたのかなと袖口に鼻を近づけると、手の甲に黒いものがぽたんと垂れ た。  
 ほんの数分前、お互い驟雨に慌てたのだろう、今時の赤い長髪に隠れた華奢だが固い肩 が額に当たり顔を顰め、妙に女性的なコロンの香りが鼻につく白いツナギ姿に身を構えた のだったが、意外に繊細な柔らかい声でスミマセンと腰を曲げて頭を下げられ、痛みは和 らいだ。背丈のある細い身体の背中に有坂石材店と印刷された文字を読んで、走り去る姿 に、石というのは、つまり墓なんだろうなと一瞬印象と認識が揺らぐのを遊ばせるように 空を見上げ、細かい雨の落下に暫らく顎を預けると、眉間に焼き栗を乗せたような甘い痺 れが丸く残っていた。  
 手提げから出したタオルで手の甲、口元を拭うと、思いのほか汚れ、喉まで血液の名残 りがあって、雨露に薄められ余計に広がったかなりの量が胸にまで落ちていた。鼻を啜っ てから、でもやはり、この濃厚なミドリイロは近くから流れてくると思った。  
 西側の壁の天井との境の、子供ならば潜ることが出来そうな小作りの、だが足は届きそ うにない高みに、校舎とか病棟の風の震えを思い起す木製の枠の、曇りなく研かれている ガラス窓が、端から端まで一文字に並び、そのうちの二箇所が下から外に向って斜めに押 し開けられ、窓の縁の金属の把手が、雲間から差し込んだ雨上りの陽射しを、鉱物に貫入 して潜む結晶の瞬きのような煌めきでこちらへ反射している。そういえば建物の隣は放ら れたような空き地があった。間近を通り過ぎても気がつかなかった儚い気配を、この建物 の小さな二つの窓が吸い込むようにして此処へ届けたことになる。血液で濡れて、鼻が敏 感になったというのも可笑しいが、それをとらえたわけだ。あの若者のコロンもどこかで 作用したかもしれない。出来事の連鎖が巧妙な仕掛けのような気もした。  
 これまで香りに囚われた記憶はない。匂いに過敏であるような質でもなかったが、錆び た記憶の蓋となったような残り香を、連鎖に促されたのか不器用に手繰っていた。やがて その遠い暗がりから、乳臭い産まれたての存在の、不完全に香ばしい、目を瞑って鼻孔に 全身を預け倒錯を誘う体液の絡む兆しを探しあて、まだ幼い頃、牧場で働いていた伯父の 投げた石ころが放牧牛の眉間に命中し、乾いた音に怯んだ後、臭い山羊の子を抱き寄せて から突き飛ばしていた一瞬の放棄、放下、ゲラッセンヘイトに取り込まれ、糞尿にまみれ た尻の筋肉と泡を吹く家畜の唾液に再び確かに静かに誘われるようだった感覚の凝固を憶 い出した。あの時のぽっかりとした中身が無いけれど果てしない広がりはある気分に今肯 いている。  
 ひとつ間違えば招き寄せた過去に蹲ってしまいそうな身体の撓みを堪えて、爪先に力を 込め唇を砥めると、舌のざらつきが現在の肉体を論すように動いた。唾液を拭き取った指 先を嗅ぐと、胃液が血液と共に含まれていた。
・・・仕草ハ形ヲ超エル・・・・  
 目蓋を指で押さえ、肩を下げるようにして胸の残りを吐き出すと、聞き覚えのない断定 が勝手に唇から漏れ、「独り言」というのは呪いでして・・・。噺家の嗄れた声がその呟 きに重なってきこえた。  部屋の中央まで斜めに差し込む昼下がりの曲折した弱い陽が、それでも淡く宙に漂う金 属質な埃を点描するように際立たせ、透き通った幾何立体をつくりこちらの踵を切断して いる。
 ・・アレハ校庭ノ柳ノ木ノ脇ニアッタ用具室ダッタ・・・  
 自身の半ズボンから曲がってのびた、細い枝のように痩せた太股から脛を憎んで恨めし く眺めた目付きが蘇り、幼い日々の乱暴で些細な約束に芽生えた怯えや、躊躇いや嫌悪が、 砕けたまま足元に繊細に砂鉄のように集まって、光の粒子の前に立ち尽くした放心が、現 在を溶かすように新たに喉元に滲み、誘われて顔つきも焦れた歪みに覆われ、封印するよ うに棄てた筈の、沼の底の堆積物に隠した皮蛋みたいな自虐を掘り出して頬張れば、この 臭みも美味いじゃないかと過去の怯みに開き直る気持ちが頭を撞げた。
 真昼の薄暗がりに独りで立つといういかにもありふれた機会が、数十年の間無かった筈 はないが、高みにある窓を見上げる姿勢と、隙間から溢れる光の呟しさなどの、空間の仕 立てが丁度重なることはなかったのかもしれない。ここまで辿った軽い疲労と精神の揺ら ぎなども助長して、眉間の奥が裂け更に状況を整えた。背後速く走り去る車の音が、開け られた窓からステレオの効果で間近に引き戻されるように聞こえると、今は見ることのな くなった、使い込まれていたるところにある凹みや傷に錆の浮いた塗装は簡単に剥がれる、 フロントが膨れたデザインの、当時どこにでも使われていたあっけらかんとした青い色の トラックを、蹴飛ばすように運転していた大工見習いの、北の街の方言の残る皹割れた唇 の奥の頑強な歯に衝えられビクピク上下するマッチ棒が現れた。二十歳そこそこだった筈 の、肉体的には成熟した男の瞬間を切り捨てるような仕草と、隆起しよく動く筋肉を目で 追っては、存在の差異に打ちのめされていた幼い性の狼狽えが、マッチ棒に火を点し、再 び放心を誘った。
 恥と虚勢で練り上げるしかないのは、お前等も此の身体も全部が間違っているからだと 嘯いた日々は、鬱屈しながらも、身近な大人たちがあからさまに指を差して下品だと嫌う 者たちのスピードと瞬発力を、模範として眺め観察することで、時には未来を直線的に楽 観し、例えば、朝早く起きて走るなどした思いつきで辛うじて肉体に宿った切ないような 疲労を好むことを、脆弱な自身を棄てる端的な手段と決め、そんなことでも続けることで 膨れた胸の肉の変化を、弱く倒錯して滑稽な自覚を促す稚拙な勃起と小便臭い自慰へ結ん でから、自分の匂いを指に乗せコレガヒトノタネカと噎せては繰り返したが、いつまでも 変わらぬ細い骨と拙い歯が邪魔だと肉体への関心を簡単に捨てていた。躯を横に放置して、 煙草を肺に充たし、生の早送りを諦めた夕暮れを、昨日のことのように甦らせてはみるが、 細胞の入れ替わり果てた目蓋の重いような今が、あの時とどれほど変わったのか。かすれ た呟きがもぞもぞと動き、その裏側で、蒙昧な精神は今でもしっかりと此処に根を張って、 肉体の重さが一体何かわからないまま、扱いにも慣れていませんよと、別の声がテロップ のように流れる。
 垂らしたままの手首に血液が溜り、血管が膨れて重くなった。骨に引っ掛かった腕時計 を回し、顎を上げ、再び窓の細長い光の束に瞳を向け、目蓋の奥の香りの残る鈍い眩みの ような痺れに今をそのまま預けた。屋外から流れこむ植物のエッセンスと、徐々に立ち籠 める金属の匂いが、空間を微分するような光の介入で麻薬めいた効果を持つとは思えない が、深みに沈んでいた記憶の破片に浮力を与え、得体の知れない恣意を操り、脈絡無い映 像をプロジェクターに運び、不意に平面的に停止し、あるいはコマ送りしたヴイデオのよ うにノイズを含ませ歪み、またあるいは魚眼レンズで膨れ強引に脳裏に併置されるのだっ た。  封印したブラックボックスを除けば、全て受けとめてみせるとスクリーンになったつも りの細い思念で、それぞれの絵の成立を見極めようとするのだが、認識は遅延しズレて定 まらない。音声と固有名の欠落したイメージは、出自が掴めずに何処かで借りたままの遠 い無縁の印象なのではと訝ると、イメージに鈍いが親しげな後ろめたさが寄り添い、ヒス テリックな怒鳴り声が活字となって絵をこの身体の経験だと正当化する。封印した箱のせ いかもしれなかった。開放されても現在に同化ができそうにない光景が、いかにも「記憶」 というモノトーンやセピア、あるいは所々に色彩が残ったような装いで朽ちて壊れながら、 何も完結していない面持ちで顕れるのだった。
 鼻を畷ると虹矧のようなとらえ所の無い凝固した太い糸が喉に流れ細かい咳がでた。眉 間の痺れは鼻血と結びつかない。脳味噌から何かが流れ出たのかもしれないと腹のあたり で茶化した途端に、流れ出るものなどまだあったのかと異様に白けた。  不確かな断片の幾つかが一人の少女の肉体を示した。友人たちとのつまらない意地の張 り合いが、少女の頬を平手で打つまでエスカレートして、用具室に独り立ち竦んだのはあ の日の午後だったのではないか。頬を叩かれたのは初めてだろう、まずその唐突な出来事 に篤いた少女の、三十年は口にしていないチフミと云う名前が唇から零れた。
 張られた頬を両手で被い、泣きもせず然ってこちらを突き抜くような眼差しが浮きあが った。詫びた記憶はない。お前には出来ないだろうとこちらを試されて反射的に手が動い ていた。理不尽に歪んだ自らのココロが正確に反復される。居合わせた友人らの顔も名前 も失っている。周囲とのズレを気質と戒めながら、つまらない事に迎合し、油断すると身 体が裂けるように痛んだことが他にもたくさんあった。ひとつが突出すると他は一体どこ へ押し返されるのだろうか。記憶への文脈はいつまでも顕れない。
 ・・・・・サウザンド、ステップス・・・  
 自転車で、走る笑顔を追いかけた絵がぼんやり透き通って、少女の動かない瞳に重なっ た。新設された学校の学区にこちらは吸収され、少女とは離れた筈だ。然し放課後、以前 の校庭で何度か自転車を走らせた。懐かしいような気持ちで追いかけた笑顔を彼女のもの と思っているのは、いつかどこかで許されたと勝手に捏造した我儘かもしれない。少女の 赤く腫れた頬は右だったと記憶にあるのも、右利きの自分が左で張ったと後で付け加えた 言い逃れのような気がする。またあの笑顔に逢えると都合良く短絡して、幾度か放課後の 校庭に通ったが一度きりで叶わなかった。然しこの記憶も、赤い夕暮のベットの上の拙い 臆病が形づくったセルロイドのような幻とも考えられる。いずれにしても、彼女はこちら の存在を真っすぐにみつめた初めての他者だった。無いものを在るような素振りで隠す仕 草は、他者をみつめる意気地の喪失を煽り、人間は皆同じだと開き直るのは固有の問題で は、おそらくない。モンスーンのこの澱みが、その錯覚を促している。そう決めて言葉だ けでないあらゆる一切を共有しない者との対峙を求めて歩き、本来的には眼差し自体に、 存在へと直に伸びる意欲と力はあって、それが人間の固有な本質にまで届くこともあると 身体で知るまでは、自身の中に世界が内在し、反射するのだと勘違いをして意識の外でお そらく何度も人間などと簡単に省略し、時には陥れながら差別していた。ヨーロッパの辺 境での暮らしは結局、チフミヘの言葉を探していたとも、今になっては思われる。醗酵し 発作的な相槌にすぎない言語で集団を妄想するこの島国で数年働いて、冷たい大陸の硬質 な空間をすっかり忘れていた。壁の残る西ベルリンの場末の色っぽい店に金も持たずに出 掛け、国籍の判然としない下着姿の女に頭を蹴飛ばされた。不意を突かれて呆気にとられ ていた。連れのイラクの男は咄嗟に女を両手で突いて、阿婆擦れなんだ。何故ひっぱたか ない。と不思議そうにこちらをみた。
 蹴飛ばされたら蹴飛ばし返す世界から帰国して、蹴飛ばされると反射的に謝罪しなけれ ばならない約束を文化と勘違いしている務めをそれでも続け、そんな関係でこそ家族との 生活を強かに温存できる人間たちを眺めて辟易しながら付き合い、「切断」の先送りを繰 り返す事がつまり生きることになっていた。同僚に肩を叩かれ、そうだなやめちまうかと 無駄に酒を流し込んで、狼狽えを無くした脳天気で楽天的な我慢ひとつで乗り切る。生き るということは、都度の決断に瞬間を注ぐしかない。それが真摯なものか酔いに任せた突 っ張りか、正しいか間違っているかなどどうでもよかった。つまり決断という「反射」の 仕草であり、仕方なのだと開き直るが、その仕方を突き詰める意気地は萎えた。狡猾な人 間の手際にある意味関心して、どこか違うと必ず首を傾げ、頭を垂らして足元に弱く蹴飛 ばすものなどをいつまでも探した。
 頬を張って驚いたのはむしろこちらだった。少女の恨めしさとか怒りを一身に背負った と思ってはいなかったし、そのような眼差しを受けとめた憶えはない。ひとつの視線がこ ちらのあまりに貧弱な「人間」であることを深々と貫いていた。ミルコト、カンジルコト に夢中で、みつめることは同時に見つめられることであり、感じることは同時に感じられ ることであるという、いかにも人間的な存在の揺らぎに気がついていなかった。幼い未熟 な精神では仕方のないことだが、記憶としてのこの対峙は、簡単には飲み込めない瞬間が 凍結されている。
 唐突な喪失によって日常があっけなく解体し、感情のうねりが去ってから、出鱈目な記 憶の錯綜が降り続く。数分先の未来の処理から身を引いて、開かれるままの過去を眺めて みようと列車に乗ったのだった。 
 窓を掠めた鳥の羽だろうか物音に怯んで、遡行をぼたっと床に落とした。真横に十セン チずれていたような魂が重怠い身体に戻って、辺りのモノがよく見えはじめ、植物の匂い も失せ、もう慣れたような昼下がりの眩暈と醒めたが、唇には少女の名前が形で残り、よ うやく血液を舌の先に確かめることができたが、鼓膜の奥の首筋へ辿るあたりから、好ん で聞いていた詩人の「サウザンド、ステップス」ときっぱりとそして激しく繰り返す朗読 の声が、フォンタナの画布を裂く手首の運動を伴って遠慮なくザクッ、ザクッと、胸元へ 切り裂くように送られ、その声が幼い少女の名前に変容するのを止めるように自ら小さく 重ねて呟いた。  高さが4メートルはあるだろうか平らな波型の屋根の下に離れて、蛍光灯がふたつ下が って消えていた。入り口のサッシの引き戸の他に、ノブのあるドアが隅にひとつあるだけ で窓は他には無い。壁はコンパネが無造作に張られ、床から天井まで寸法の同じ棚が取り 付けられ、入り口の引き戸の上の壁も天井まで左右から棚が延長され、鉄のL字材と網を 溶接して組み立てられている。中央にはこれも床から天井までを垂直に固定された棚が三 列並び、棚板の間隔が壁と同じであったので、ジャングルジムの中に立って、水平と垂直 とに身体の線を戒められる不安に似た眩暈と、奇妙な整合性を空間に与えている。コンク リートの床には、小さい孔が円形に掘られ、それぞれの棚足を差し込みセメントで固定し てある。奥には障子がみえた。向こう側は住まいに接続されているのだろう、薄赤くオレ ンジ色にぼんやり発光して、人の暮らしのあることが、不思議な気がするほどに静まり返 っている。同じ面積をそのまま位相できる広く空いた障子の上の壁の中心に、四角い時計 があり、唯一動く自覚を反芻する確かさで、振り子が音もなく揺れている。棚には鋸、紐、 ロープ、軍手、青い延長ホース、蛇口、プランター、アルマイトの鍋、作業着、湯たんぽ、 炭鋏、火起し、ビニールシート、釘の箱、油性と水性のカラーペンキ、刷毛、バケツ、三 つづつ強化テープで束ねられた煉瓦、束子、針金、石油のポリタンクなど大小様々な形態 の生活雑貨、金物が隙間無く整然と棚に並べられている。壁も中央の棚も床から膝ほどに ある棚枚の下には何も置かれていない。そのせいでこの部屋を支える基底を見渡すことが できるので、等間隔にぽつぽつと並ぶ丸いセメントの跡が得体の知れない装置となって、 モノを支える磁力か何かをはらんでいるかにみえる。
 イヌイットのサングラスのような空間のスリットである細長い窓の下の棚には物干し竿 やスコップ、柄の長い枝きり鋏と角材が、窓の形を崩さないように棚板に寝かされ、商品 の殆どは箱に収納されたまま、値札らしきものも商品名もみあたらない。店舗というより 倉庫だった。フラットな簡易トタンの大きな壁面に小さくあった入り口を開けた時、プラ イベートな空間に立ち入る感覚が先行して尚それに誘われていた。生活をコツンと弾かせ て細かく分解したようなパーツが置かれているのだから、この店に通えば人体解剖模型の ように透明な一軒の家ができそうだと、最初は眺めも月並みに斜めに動いた。天井まで品 物を高く積み上げられた空間は、系統に忠実な博物館に似た執拗な蒐集の趣があったが、 その内実を眺める者に対して媚びるような虚飾はない。重ねられた薄い箱のひとつを開け てラジオベンチを手にすると、握りの内側にいつか手にした陶芸作品の裏にあった控えめ なものと同じ仕様の、小指の爪ほどの白く丸いシールが貼ってあり、660とボールペンで 米粒を並べたように記されている。フライパンの裏にも同じように2200とあった。「灯 油はこちら」という文字と矢印が、新聞の公告ページをそのまま切り抜いてセロテープで ノブのあるドアに貼って示されていたが、近寄って更に頭をすり寄せなければわからない ほど細く小さい。障子の手前には腰の高さのガラス棚が独立してあり、その中の白い布が 敷かれた棚に刃物がいくつか並び、度々手入れをしているのだろうか、祀られているよう な慎重さで、細かい光を逃さぬように鈍く反射する刃は、見たこともない爬虫類の皮膚を 思わせた。まさか売り物を研ぐわけではないだろうが、時々取り出して曇りを拭き取るそ の仕草を自身の指に重ね、こういった種類の店の主人なった心地で腰を曲げ、刃を眺める だけの非実用的なオブジェとしてみつめると、こめかみが痺れるのだった。
 ガラス棚の手前には一畳程の机があり、厚いガラス板がその表面ぴったりと敷かれ、カ レンダーと商品のリストがプレスされている。骨格は鉄材とコンパネで組まれ足は棚と同 様に床の丸い円の中に固定されていた。動かすことのできない「湖面のような机」に膝を 曲げて、美術作品を眺めるような姿勢で歩み寄り、何も置かれていない水平なガラス面に 暗いトーンで映り込む空間を眺めると、健やかな空虚に充たされた。このガラス板なら、 「喪失」を除けば、過去もすっきりと曇り無く、後ろめたさが拭われてセンチメンタルに 美しく映る気がした。
 一見無愛想な生活雑貨の店だが、みつめると商う人の実務的とは言えない、極めて特異 な仕草が控えめにあれやこれやに顕れて意志の形となり、ここにいては彼の生きる姿勢を 受け止めるしかない。コンクリートの床のヒビ割れは、幾度か修理され、打水の乾ききら ない名残りがうっすらと、所々にあった。毎朝独りで腰をまげ水をまき顰め面で掃除をす る姿が浮かんだ。客は多くはないだろうが、目的を持って訪れる人間に回答を用意して待 つと、このような形になった。店というものは知るかぎり、こちらの都合で存在するもの ではない。こういったものがほしいと願う場合、ほとんどは既にあるモノであって、買う ことはつまり選択でしかない。その選択肢はまず扇動するような、「必要」によって描か れる。そして便利だとか楽だとかいった「必要」を説明する詭弁は、日々を一層細かい断 片に切断して複雑にするばかり。この店にはその必要を殊更に売るつもりがみあたらない。 生活の修理、リサイクル、整理を促し、補充に答えようとしているにしても、需要の少な い筈のアラジンストーブの丸い石綿や、目盛りのないビーカー、試験管、鉄や鉛のインゴ ット、今時の暮らしではその用途が思い当らない錯止めの油紙で包まれた鉄の鎖などは、 売るためでなく、ただ並べるためだけに置かれていると其々の暗喩を邪推したくなる。月 にひとつ売れる程度の鍋や50センチの切り売りの針金で、生計を立てるわけにはいかない。 今流行の商品を節操なく出鱈目に並べるつもりなどない。季節の変化に合わせて、例 えば灯油や雪掻きシャベル、蚊取り鏡香や団扇、茣蓙などを近隣の人々の様子を測って仕 入れ、帳尻を合わせる。故障すること壊れることを前提として消費を促す欠陥をプロダク トプログラムする成長の過渡期に生まれた、変化前提の生に密着した店のそれからは、大 型店の出現や暮らしの安定などによって本来の意味を失って、日々を淡々と変わらずに繋 げるという別の意味を新しく形成しなくてはならなかった。最早「必要」でない事を丁寧 な仕草で据え置く。紙ヤスリ一枚や鍋の蓋といつたささやかで唐突な事態に答える為に待つ。 待つことがシェルターのような生活をつくる。近隣と適切な距離をとってそれを持続 させなければ信頼が成り立たない。モノを並べては眺め、眺めてはまた並べることを繰り 返すことで、この空間は店舗とは違った意味を抱いた。だから漠然と訪れる者の意識が、 変哲のないモノの間を実によく動く。動かされる。ふと試験管を手にし、金の支払いをす る瞬間を予感できる。  目の高さにある重そうに巻かれた鉄の鎖は、この空間の消滅に備えているような逆説的 な気配を醸し、箱に詰め込まれたボルトとナットも充分にオイルを含んで準備され、ねじ 込まれる瞬間を既に果たしている。眺めるほどに、この空間の仕組まれた併置によって創 出された意味の変容に縛られていく。終わってしまった形が、遺跡のような佇みで、意味 と固有名を消失して新しく顕れる。そして、その感触は悪くない。振り返って窓を眺め、 あれが閉じたままであったら、このような時間は立ち現れなかったと領き、いつの間にか この空間の意匠全てを引き受けて了解し、明日からでも働きますと、店を任された錯覚が すっきりと広がって、箱を開け、ひとつひとつ挨を払い、箱に戻すだけの仕事を考えた。  閑散とした住宅地を貫通する細い街道添いの弁当屋、電気店、文具店など散漫に並ぶ商 店街から少し離れ、森田商店と小さく示された箱型の倉庫のような店の隅の棚に、欅だろ うか3センチほどの厚さの一枚板が重く感じられた、折り畳める足の細工は蝶番など使わず、 よく眺めると釘ではなく竹釘か何かを丁寧に忍ばせる工夫がある小さな丸い卓袱台を みつけた。即座にあの部屋にこの身を繋ぎ止める形だと受けとめていた。これであの何も ない四角い空間に腰をおろすことができる。塗装も施されずに磨いたままの、さっぱりと したオブジェであって、量産できるモノではない。値札を探すがどこにも白いシールは貼 られていない。生活のイメージを契約した部屋に当て嵌めるように続けて、色彩の際立っ た黄色の風呂桶と、髭剃の束を、抱えた卓袱台の上に重ね、それぞれのちぐはぐな形の取 り合せを眺めてから首を傾げると、学生の頃の猥雑に散らかった暮らしとミャーと名付け た猫が気怠い反復感を伴って浮かび、モノに依存する生活の意欲がすうっと退くのだった。
 簡単に触れてはいけない。それでも髭剃は必要だから。喉元で怠惰に繰り返すと背後で 物音がした。障子を開け、サンダルを履き、足場に使う脚立を畳んで脇に立て掛け、ガラ ス棚に寄り添って、手首の太い主人が立った。咄嗟に単身赴任が決まつて飛ばされたと出 鱈目を小さく呟いた。こちらのこれまでの動きを見透かされた錯覚が唇あたりに翻った。 理由もなく狼狽えて、生活に何が必要であるかなど全く考えていませんと言い訳を続けそ うになってそれは堪えた。主人の指先に呼応して蛍光灯が点ると、辺りはそれまでより暗 くなって空間の性格が変わり、こちらを支配していたような呪縛がふっと霧消し、背が楽 になってから手元を眺め、卓袱台が四角であったら、三つの辺に幻を呼ぶだろうなと、淡 い戯言を指先に添えて買う決心を繰り返した。  主人はガラス板の敷かれた机に指を置き、目元を伏せて細い声でいらっしゃいと呟いた。
 暮らしが一通りではなくなった  
 これは売れるとは思っていなかった  
 服役者によって丹念に作られました  
 本当は自分で使うつもりだった  
 ところが持ち帰ると 使う必要がみつからない  
 売り物ではないんです   
 値札がないでしょう  
 六千円では高いでしょうか  
構わないと首を振ると、店の主人は、話している間休めなかった、卓袱台を拭く雑巾を 横に置いて、それよりもこれがいいのではと、脚立を北の棚に運び、その一番上に乗って 天井に近い棚から温泉旅館の広い湯槽に並んでいるような木の風呂桶をとりだして、こち らに裏側を向けた。思ったほどではないでしょう。近寄って小さな値段の記されたシール をみて、大袈裟ではないかしらと小さく答えると、主人はあっさりそうですねと、棚に戻 してから脚立を降り、袋に入れた髭剃の束を黄色の風呂桶の内側にセロテープで止め、卓 袱台に引っ繰り返して崩れないように紐でまとめ、持ち運べるようにしてくれた。主人の 動作はなぜかこちらの視線を集中させるので、何気ない作業が周到に訓練された作法のよ うに感じられる。
 プラスチックの手軽なのが他にも沢山あるでしょ  
 安いし軽い 
 でも時間が経つとどうしようもないモノになる  
 使う度に溶けて離れていく  
 少しづつ正体を、本質を顕すわけだ  
 これは大丈夫です  最初から何も隠していない  
 釘を使っていませんね  折り畳む所も巧く出来ている  
 そしてとにかくよくみがかれている  
 つくるという時間が大切だった  
 角を落としていないのは  使い易さを目的としていないということだ  
 ひたすらに清潔な形を求めている  
 気をつけてください 
 角で指が切れるな  
 でもちょつと小さいか  
 寸法というのはおかしなものですね  
 人それぞれのサイズがあって然るべきだが  
 生活の微妙なサイズをオーダーメイドするなんてできない  
 つまり選んだサイズに自分を慣らさねばならない  
 間違えると   
 子供の服を大人が着るような滑稽さが身についてしまう  
 かといって可変式というやつは、優柔不断になる  
 お独りならばいいか    
 よく燃える  
 燃えるということが肝心だ  
 こういうモノばかり売りたいんだけどね  
 そうもいかない  
 ワタシはつくれないから  
 
 主人は半眼を卓袱台に落とし指先で触れながら、ゆっくりと自身の言葉を確かめて、静 かに独り言のように話した。(ならべるだけだから)声に出さずに胸の中で添えた。主人 の小さな声の詩の朗読のようなリズムがまだずっと続くような気がして待ちながら、そし て何か尋ねることがあった、あるいは詫びなければならないが、一体何を尋ね、何に詫び るのだと、途方に暮れる気持ちを瞬きで刻み、支払いを忘れたまま、主人の卓袱台に触れ ている太い人差し指にあるまだ新しい赤く腫れた傷を眺めると、切り裂かれたばかりの傷 口から溢れる瑞々しい赤い血が顕れて、その柔らかい痛みがこちらの指に移り、うっすら と気が遠くなるのだった。
 しばらくして主人は脚立に歩み寄り、携えて西の壁に立て掛け、昇り窓を閉めた。いつ 捕まえたのか、尻尾を悶えるように曲げる蜻蛉の羽を、太い指で器用につまみ光に翳した。 主人のシルエットに向かって、再び懺悔すべき告白が迂闊にも腹から次々と零れそうになり、 頻りにそれを堪えた。  
 他にまだ必要なものがありますか、と主人はこちらを振り返らずに短く尋ねた。  
 必要なものなど何もなかった。ちょつとしたことで簡単に周辺が膨らんで身の動きが鈍 くなる。大きな食器棚や家具などを懸命に積み込んだ引越のトラックをみかけて、憂欝を 愛している疲れた人間を浮かべていた。手にぶら下げている卓袱台と風呂桶にしてみても、 必要というほどのものではない。列車の窓に「ゼロ」という暮らしを妄想していた。だから、 生じる迷いは都度、切り捨てればいい。坂道を下りながら、暮らしの実感が何処にあ ったか記憶を辿りそうになり慌ててやめた。  
 記憶が勝手に降るのは仕方がない。だがこちらから強引にこじ開けて、憶いだそうとす ると、そこに現在の偏ったバイアスが差して結局再び強く封印してしまうに違いない。だ から考えずに目の前に身体を投げ出して預けるしかない。  
 間近に寄ってから肩を避けた電柱に、「布団」の看板が括られていた。眠りを心配しな ければと気付いた。独りというのはこんなものなのだと開直りながら、路上生活者たちの ダンボールまでを気楽に浮かべ、キャンプなどで使う寝袋を考えたが、身体の緩みがそれ を許す年齢でないとごねた。看板の矢印の示す布団店は五分歩いてみつかった。店のガラ ス戸に近付いて覗くと、後から肩を叩かれた。  
 この店はもう閉まっていて人間は逃げた。大家が後の処理の一切を任されている。早口 で説明する男は、斜向かいにある小さな焼鳥屋を指差してアルバイトだという。昼間の仕 込みは気持ちのいいものではないよ。慣れない。別にスキでやってるわけじやない。勝手 に喋りながら、隣りの広い庭に手入れをした植え込みの並んだ、農家を改築した風な玄関 までこちらを引っ張って、大家を紹介してくれた挙げ句、この人に布団を譲ってやってほ しい。まだあるでしょ。窓からみえるもの。大家と呼ばれた農夫の名残を皮膚や指に残す 初老の男は、手に下げた卓袱台と桶を眺めて、布団なんてどこにでも売ってると言いながら、 一度干して使いなさい。後で文句は云わないでくれと一揃五千円で譲ってくれた。ア ルバイトの男は、自分が言い出したことだから。さっさと汚れた前掛けを店の中に放り投 げて、彼の軽トラで部屋まで運ぶと歩き出した。唐突なスピード感に流され、身構える気 持ちは失せて、アルバイトの男の選んだ布団にそのまま領いて、老人には礼も述べなかっ たなと助手席で鈍く考えた。  
 高いこと言うよな  
 布団なんてどうしようもない  
 とっておいたってね  
 あの親爺焼鳥の臭いがたまらないって文句を言うんだよ  
 すんませんって呑ませたら真っ赤に酔っ払った  
 俺は雇われてんだと開き直ったら  
 その雇い主は昔から嫌いな同級生だときた  
 暇なんだよ連中は  
 血が繋がっていないモノは人間じゃないと思ってる  
 ちょっと寄り道するけど  
 
 車は迂回して仕入先だと説明された肉屋に暫く止まった。空を見上げると、ジェット旅 客機が斜線を引くように軌跡を白く残して音もなく移動している。立場の違いとは、あそ ことここの違いということだ。旅客機の座席をおもって、不意に現在を悟った気がした。 振り向いて、荷台に乗せた一揃の布団と卓袱台を眺め、切り詰めてもこうして大袈裟に膨 れる。ひとの手を借りて車などを使うことになって、知らぬうちに楔を打つような堅牢で 容赦ない「暮らし」がこちらを無視して根を張るかもしれない。題名の忘れた70年代の 色素が限られた邦画の鮮やかだが嘘臭いシーンが現在に重なり、自身の発作的な行動に、 結局封印へのメソッドが潜んでいるのだから、不具合など仕方がないのだと、これも幾度 と無く繰り返した諦めで括った。    
                    
 布団屋はふた月程前に消えた  
 何人か取り立てだろう 
 出てこいって怒鳴り声を聞いた  
 子供はいなかった  
 二十年は住んでいたらしい  
 仲のいい夫婦だった  
 俺の店に一度だけふたりで来たよ   
 旨いっていってくれた  
 顔を合わせれば声をかけてくれた  
 今日は暑いね とか 晴れたね  
 二人とも酒は飲まなかった  
 俺には一言いって逃げればよかったのに  
 まあ信用されちゃいなかっただろうけどね  
 運に見放されているのは俺もおなじ  
 借金を大家が肩代わりするわけがないけど  
 布団はヤツのモノってわけだ  
 なんか貧相な買物だな  
 車で十五分ほど行けばでかいホームセンターがある  
 ガーンとデラックスなテーブルもベットもある  
 車貸してやるから 
 その時はいってよ    
 あの鉄湯に通うつもりですか  
 番台の女、俺を無視すんだよ  
 ・・・デラックスか。発作のように湧き出ては止まる喋りはしかし、事実の描写であり、 捏ち上げや誇張や嘘はないと好ましく受け取った。相手構わず自身の感情を制限なく吐き 出す男の喋りを、羨ましく聞きながら、こちらからはこれといって何も浮かばない。マル ボロメンソールを衝える男の髪の毛から醤油タレと炭火の混じった甘い薫りがした。助か りました。と彼に言うと、焼鳥喰いにきてください。狭いけどカウンターで呑めるから。 何もないじゃない。この部屋。カーテンくらいなゃあ。でも三階かあ、いらねえか。から っぽでは興味を持ちようがないが、布団を担ぎ上げてくれたのは詮索好きというわけでは なさそうだった。語尾を茶化すように上げ部屋を出ようとしたので、こんなで申し訳ないが、 車のお礼だと千円札二枚を差し出すと、怒った顔つきで、そんなつもりじゃねえよ。 夕方5時から焼いてるから。自身の御粗末な仕草に後悔しながら、冗舌が孤独を説明する 男の背を見送った。面倒が片付いたと感じながらも、馴染みのない人間やモノに関わりす ぎたと戒めた。守るものなど何ひとつないけれど、無防備にただ立ち尽くすようでは様々 に簡単に蝕まれる。然し些細な関係を避けるように頑なであっては、総てに対して逃げ腰 となって逆に脆うい。胸に留めなければいいか。
 湿気で少し重く感じられた黴臭い紫色の紫陽花模様の布団を、部屋の窓から差し込む陽 に当たるように並べてから、部屋の真ん中に卓袱台の足を広げ床に置くと、フローリング の床に吸い付き、接着剤で固定した程に全くグラつかない小さな丸い水平面ができた。見 事なものだ。部屋の隅に寝転んで煙草に火をつけ根本まで深くふかしてから、卓袱台に反 射する午後の日差しに目蓋を預けると、怠い眠気が落ちるその際で、森田商店の主人が俯 いて山のように盛られた白い肉に太い指でキラキラ光る金属の串を一本づつ丁寧に差して いる幻が浮かんだ。この卓袱台はアイツが自分でつくったな。根拠の無い確信をそこに挟 んで、床に孔をあけて固定するわけにはいかないけどゼロってことだと、白い楕円を縮ん だ頭で膨らませて目を閉じた。  
 妻と娘の笑い声が木霊して、泣いているのか喜んでいるのか判らない反響の夢の中、真 上から部屋を見下ろしていた。中央の丸い小さな卓袱台を抱きかかえるようにして、背を 丸めた男が何か顕わな感じで寝転んでいる。あれは俺ですと指差して、投げやりな気分で 同情まで浮かんだ。真四角だったのかと部屋の形にはじめて気づき、日の丸だ。曲がった 身体が海老にみえて、なんだか貧しい弁当だな。この男飯を喰ったのはいつだったかと思 い出そうとするが、食事の光景は現れない。布団の模様が鮮明すぎるから、きっとあの男 は起きあがって切り裂くぞと思う。動かない身体に終了する、停止する宣言のような衝動 が満ちている。でもそれは自らの命を絶つことではないから、厄介だよな。生きながら消 滅したいわけだ。どうしてここを選んだ。また鼻血が流れてきた。ごろんと転がっただけ の寝相ひとつが、こうも、人間の歩みを顕すのだな。鏡をみてみろよ。とそこまで虚空か ら吐き捨てると、背後に黙って座って目を伏せる妻子の気配が迫り、夢の意識が青白く発 光しはじめて、やがて消える際、遠くで焼鳥屋の声がはっきりと聞こえた。
 ・・・春ダッタラ ヨカッタナ・・・・  
 肩を叩かれて振り向いたような、振り向かされたような、あるいは唐突に気がついたよ うな鮮やかさで、朝五時に目が覚めた。身体の弛緩を探す躊躇いをばっさりと鉈で切断さ れて、目を開ける前から何かをみつめていた風に、始まりから知覚のアンテナがピークに 達している。熟睡していたことを疑う気持ちで両方の手の平を眺め、刻まれた皺を数えると、 視線がズームして皺の谷を飛行する昆虫のように動く。  
 床に入って身を横たえる時から翌朝への切迫感があり、酒などで誤魔化して突っ伏す、 眠り自体を否定するような夜を繰り返していたこれまでと違って、睡眠へ戻ることもでき るのだと、何も無い部屋を顎で見回し、窓寄りに畳まれた卓袱台をみつめた。  
 時間に縛られることなど何もない。然し自在に振るまう為のマニュアルが無かった。ど んな苦痛であってもそれはいつか身に熟すように定着して馴染む。痛い。嫌だ。という悶 えもいつか甘えるような含みを持ち始め、回復すると何か物足りない。差し迫った現実に こそ救われているわけだ。空漠とした理由のない緊張は、気持ちのやり場のなさに戸惑う ことで加速する。無頓着を装うようにしても尚やり過ごすことができない。便器に座り新 聞を広げ髭を剃りストレスが絡み付くように残った朝の混沌の欠如が、可笑しなことに自 身の存在の根拠の喪失感となってこの身体のどこかを締めつけている。身を差し出すよう にして目蓋を閉じると、幾つかの過去が言葉の固まりとなって、喉や腹を蹴飛ばすように、 転がり出て動き始める。その動きを抑えるように、いつになく漲って膨れた股間を握りな がら耳を澄まし仰向けになったまま朝の音を辿る。  
 これまで聞き耳を立てることなどあったかと、まるで初心者の心地で物音を探すと、耳 は部屋を離れた。缶の転がる音が地面から三階のこの部屋の窓まで垂直に立ち上がって長 く続いた。頭蓋を緩く震わせ、鳥払いの空砲が数キロの距離を直線的にパンと胸を貫き新 たな目覚めを促した。出来るだけ克明に音の所在と根拠を探ろうとした。走りだして停止 する足音に、踵を気にして立ち止まる女性の柔らかい肢体と吐息を与え、真下から股間に 向かってストッキングを辿った。何処かでビンの割れたような音には、連続撮影した破壊 される運動の軌跡が、はにかむように笑う子供の広げられた柔らかい白い手のひらの上に 未来派の絵画のようにあらわれる。車が勢いよく走り去るエンジン音に、アクセルに掛か るドライバーの踵の力と悪意を与え、穏やかな人間がアクセルを踏み込む。彼のせいでは ない。などと善良なサラリーマンが夜な夜な過剰なエンジンを玩ぶ至極単純な物語の発端 に触れて遊んだ。  
 世界を成り行きでトレースして産毛のような無邪気を添える1時間程が、意識の緊張を 解き、全体の活性を呼ぶようだった。雀の囀りが響き、頭の芯が解けたように痺れ、血液 の流れや肉の疼きといった身体の細部が感じ取れる。肋の骨が指で摘めようになって、知 らぬうちに多少身の油の抜け落ちたことなどが、他者を観察するように無責任に眺められる。 腹、皮膚、爪、歯、骨、性器と、ひとつづつ確かめてから立ち上がり、布団を押入に 片付け、下着のまま窓を開け、卓袱台を中央に置いて、水を飲もうと水道を捻ると、色の ついた水が流れた。しばらく両手を水に曝してから卓袱台に頬杖をつくと、濡れた指先か ら落ちた水滴が台の上に幾つも丸く静止した。鏡がなかったので頬を指で確かめながらゆ っくり髭を剃った。鉄錆のような顎の血を舐め、健康な徴と受けとめた。卓袱台を折畳み、 布団と昨日買った雑貨類を全て押入に仕舞い、何もない部屋に戻してから、バックからタ オルを取り出して、色がなくなるまで蛇口を開けて流しに水を溜め、タオルを絞って部屋 を端から研き始めた。フローリングのワンルームで、汚れているわけではない。  
 気がつけば陽が傾くまで狭い部屋を磨いていた。トイレのステンレスの管から、窓ガラ ス、流しの下に作りつけられた物入れに残された瓶底の丸い痕、柱、押入の隅々に至るつ まりこの部屋の全ての表面を指先で辿ろうという気持ちに任せた。水滴が滑り落ちるほど の鏡面となった流しの蛇口の下で汚れたタオルを濯ぎ、開ける度に冷たく感じるようなっ ていく水道水で肘から手首までを冷やすと、慣れない運動で軋んだ腰や筋肉の痛みが一旦 背筋に集まつて指先から流れ出る気がした。辺りに飛び散った水滴を何度も拭うことで、 直に皮膚に吸い付く摩擦感を与えるようになったフローリングの床を、肉体の一部として 許すと、作業は頗る好ましく捗った。仕方のない手続きなのだからと、可笑しい論理を遊 んで、手の平で雑巾を素材へ直接与える行為自体も、吹き出る汗も、カラツと晴れ上がっ ていくような空間と共に、これ以上は望めない至福感を煽って、関わる時間と比例して充 実するのだった。眼差しがこの執着の未完を許さないと柔らかく尖って、時々草臥れて寝 転び身体を休めても、済ました箇所を繰り返し確認して行き届かない他を必ず探し出すふ うに細かく飽きもせずに動くのだった。清潔をめざすということではない。部屋というモ ノを道具としてこちらが馴染む為の手段であって、家具を並べ、気に入った模様のカーテ ンを張り、照明を工夫することと別段変わりがない。ただ今はこの何も無い空間をカラッ ポの状態で了解したい。  
 幼い頃、父親の建てた安普請新築の庭は造成の仕方が不十分でまだ石ころが残り、四角 い芝生を敷いても隙間から雑草が旺盛に芽をだして、限りのないような草取りをした。な んて無駄なことをするのだろうと思ったものだ。どうせまた生えてくる。だが腰を屈めて 草を毟る単純な繰り返しに、説明のできない行為の充溢が生まれ、場所が自分のものとな る感触を抱いたものだった。いつしか庭は、新しい建材や塗装の匂いも雨に流され、騒々 しさが消え、雑草は消えたわけではなかったが、存在を見とどけられ許されたような場所 に控えめに芽を出すようになっていた。世界を現実感を持って把握し納得するには、肉体 を使った直接的な介入の課程がまず必要というわけだ。腰に手をあて、チェリーをふかし て庭を眺めていた父親は、この庭は指先で触れて辿って仕上がったと、自らの生き方のさ さやかな完成形と感じたのではなかったか。あるいは何も考えない白い健やかさを手に入 れたのかもしれない。あの時の父親の年齢を通り過ぎたが、こちらは堪え性が無い痩せた 青年のまま、ゼロに辿り着いた。  
 白い使い古しのタオルはどうしようもない色となり、千切れて一体これは何だろうと思 えるほどになり、汗で汚れ襟元の弛んだ着ていたTシャツを四つに裂き、靴下も雑巾に加 えた。天井に直に取り付けられた丸い室内灯の内側に薄い黒子のようにある虫の死骸をみ つけ、成程と、頑丈な卓袱台に感心しながら、手のひらと変わらぬような感覚を持った裸 足で乗り、カバーを外すと、中の亡骸は吹けば飛ぶ乾いた簡単なもので、それよりもむし ろ白い筈のカバーの黄ばんだ表面が、指にぴったりと張りついて、煙や油や挨が層となっ た言わばこの部屋のこれまでの知りようのない時間を実体として顕した。見ず知らずの人 間の肌を幾度も洗っているような強ばった気分で、汚れをそれでも丁寧に落とすと、先住 者の気配はようやく失せて、室内灯は全く別の灯りを部屋に与えた。部屋という空間に肉 体を預け、絶えず付き合っている女たちは、こうして住処を肉体化させるのだろう。女た ちの日常の眺めで生成される唯物的な物質感を手元に集め理解したような錯覚が起きた。 仮初めの住居と割り切ったせいか妻は掃除機しか使わなかった。軽く請け負ってしまった 台所のステンレスを研く仕事は年に一度で済んだ。雑巾で床を拭けと指図したのを堪えて、 妻の好きにさせていた。三階のベランダにプランターを置き、手間のかかる花の手入れを 手伝った。早朝に見た朝露に濡れた花びらを、幾度か放心して眺めたものだ。  汚れても、埃にまみれても、自ら発生させたものであれば構わない。厭わない。だが、 使い古されるしかない空間は、積極的に関わらなければ朽ちる。中古という現実へ自身が 直接介入する場合は、知らぬうちに先住者の物腰や態度、趣味や愚痴までもが乗り移る。 それを嫌って全てが新しい状態を望み実現できる人間は限られている。新築の絢爛な家ほ ど人間の体臭を吸い込んで老朽化が激しいのだと、いつだったかどこかのいかれた風水士 が熱っぽく唾を飛ばして喋っていたが、案外そのとおりかもしれない。下町の使い込まれ た路地と丁寧に磨かれた木造家屋の佇まいを上品な仕草の結実と眺めたことを思い起こした。 世代を固有の空間で丁寧に交替しながら、関わり方の作法を伝えながら穏やかに生き る者もいる。とそこまで悠長な感想に辿り着いて、腫れて痺れた手首を眺め指の骨を鳴ら すと、長い間奥歯を食いしばっていることに気づいた。行為自体が「喪失」という名のブ ラックボックスをも研くことになっていた。  
 日射しも西へ傾き、部屋に陰が満ちると妙な昂ぶりも衰えて、無性に腹が減った。磨く べき箇所がまだ其処此処に残っていたが、外へ出た。暮らしをはじめたとは言えない二日 目であったのに、随分と住み慣れた調子で足取り軽く動いて、駅前までの路を何も考えず に下り、蕎麦屋の暖簾をくぐった。

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