樹々の幹先から中程までが大きく揺れ重い風が乗ったかと見あげたが鳥獣の叫びも無く静まりかえった光景の中に居る奇妙な不思議さこそが自然の成り行きと感じられる。境界ではなくて既に外にいるのだと繰り返した筈の自明の滲みが蒼く四肢に広がる。耳の痒みに手を添える格好が今では遠くを聴くような手のひらの形に慣れ、時折妙な方角から妙な音を拾う。
ー「行方は」
ー「その海辺から持ち帰った丸い石を眺めていると軈て到頭目玉が鉱物になってしまうよ」
ー「囲炉裏の回りに斧や鉈や鎌を並べて夕暮れから深夜まで毎晩研き続けた季節から女の瞳の色が変わってな。こちらも刃には近寄らせなかったようなところがある。家内は刃の毀れた包丁で飯をこしらえていたが研いでくれとは言わなかった」
ー「うっとりとした顔をしていたんだろうな。男のそれは気色のよいものじゃない」
肘まで汚れた泥を盥の水で洗い流しながらその滴りがふいに女を想起させ陰茎の膨れをぽたぽたと音に預け、左手の指先で脇まで辿ってから泥の中を探るような目つきを歪んだ指先に落とし、軀の骨の音を幾つか探していた男の妻が消えてから二十日が過ぎている。
ー「はじめから女に備わっているかの一振りで肩から背にかけて切りつけられたけれども、吹きでた赤いものを見て狂いを潰す勢いで翻り近寄って床に垂れたものを指先で掬ってしゃぶり緊迫の解けた眉ですまなかったねえと甘えるので傷の手当もせずに押し倒して随分長いこと交わっていた。あの時に噛まれた。仰向けの果てた軀に刃を突き立てられるかもしれないとぼんやり考えていた」
ー「石になった目玉を舐めここだけ冷たいと囁く女の髪に魚鱗が香るのは自分の軀のせいだと。山女魚のような軀だったな」
ー「峠の霧道に隠れるように女が座っていたという。若いのか老いているのかわからないから近寄ろうとすると霧の深さへ逃げてしまうのだ」
ー「親父が母親を掠って夜道を走っている時に泣き叫んでいいはずのまだ無邪気な娘が女の重さでしがみつき自分のほうで罪を負うと呟いたと話したのはいつだったか」
ー「お前らは男ばかりだから男を保っているつもりができる。女に慣れたと間違うことが凄惨なのだよ。畏怖すれば安泰とは弱々しいものだ」
早朝から昼までしとしと降った雨の湿りがまだ残る倒樹に座ると尻に冷たさが伝わる夕暮れ時に、家の裏で払った枝木を叩き折った薪で火を起こすと濡れた枝葉が煙って蒼白い徴のように立ち昇り幾度か風で巻き取られたが軈てひとつまっすぐな柱になる。時刻を知らせる鐘の音が遠く聴こえラッパスピーカーのノイズの震えがこの黄昏をより一層陳腐だがリアルなものにする。耳の切れた男は遠くを睨みつけて唇をチッと鳴らす。このところ方々から畑仕舞いの手伝いを頼まれ藁を運び土を盛り直し小屋の修理に屋根にあがり道を行く別の人影から翌日の草刈を頼まれ手を振って即答し、夜は簡素な囲炉裏の炭火の横で酒を呑みつつ褞袍に包まって寝る日が隙間なく続いたので、軀の肉は膨れて疼くように力が充ちてあったから、朝から合羽を羽織って墓の蔦にとりつきそのまま終日家屋の回りを巡って鉈で切り払うことに苦はなかったが流石に一日鉈を振るえば刃は駄目かと親指をあててから手斧に持ち替えた。
声もかけずに焚火の脇に一升瓶と新聞紙の包みを放り置いて茶碗をくれと長靴から湯気のでる足を抜き出した膝から下を濡らした男が藁を広げて胡座をかき作業が染み渡って皮が剥けた手を燻りのおさまりつつある若い弾ける炎にかざした。歩いて一里ほど下った沢縁の小屋からの坂道を歩くなど馬鹿らしく考えている耳の切れた男は山に住まえバイクを使えと事あるごとに言葉少なく諭したが、濡れた男はその度に谷でいいのだ歩みでいいのだと応える。互いの存在など気にも留めず過ごしているがふいに憶いだすでもなく決まって夕刻どちらかがどちらかの家へ酒を持って行く。耳の切れた男は湯気の出る足で囲まれた新聞紙を広げて膨れた山鳥を捌きはじめた男の薄くなった頭頂を見下ろしてどうしてこんな光景でと訝しく妻が狂い崩れた夜をぼんやり浮かばせたのは、先だって谷の小屋にまだ若い女が働き回っていたからで、膝から下を濡らした男はその名も教えてくれなかった。
ー「あいつが庭で座り込んで垂らしたばかりの糞肥混じりの土を喰っているのをみて俺は正気に戻ったが」
焚に加わった白髪の男は妻と煙をみたよとふたり揃って懐中電灯を頚から吊るし土のついた野菜を持って来たが、頭を下げさせ先に妻を帰らせてから濡れた倒樹を炎の傍に引きずって尻を填め込むような仕草で座り込んだ。林の幹の向こうに歩みさる白髪の男の妻が振り回しているような光源がちらちらまだ見える。白髪の男の家は歩いても遠くない。耳の切れた男の妻が消える前にこしらえた皿に出された漬物をしゃぶりながら男たちは茶碗酒を一升瓶から注ぎ再び干して注ぐ。
ー「まさかやっちまったんじゃねえだろうな」
ー「そんな気もしてくる」
ー「本来はお前が逃げる筈だ」
ー「女はひとりということになかなか慣れないのかね」
月がのぼり風もとまり焚酒を延延つづける男たちの脇に白いものが忍び寄り誰とも無く各々の喉元に近しい女の口調が転がり始める。収穫の祭りも疾うに終わり冬支度に急かされた日々をも終えたような侘しい季節の夜の焚火の、枝を差し込む度に炎が憑依を手伝い口元を柔らかく促す弾ける音がぱちぱちと鮮明に響くのだった。
ー「一言美味しいって喋ってちょうだいな」
ー「あたしはねえ、あんただけのモノじゃないのよ」
ー「お酒なんていくらだってのめるのよ」
笑いのない静かな憑依化けの掛け合いを男たちは飽きもせずに茶碗を干す度に継ぎ足すように加えて併し黙り込むのは、自らが憑依されるのではなくどこかへ憑依するような精神の繊維が例えば炎に向かって燃えていくからであったし、朝が来て汗を流せばこの時など亡失する明るくも暗くもない単なる明日があるからでもあった。この夜の酒と炎が酩酊の横に停止しているのであれば騒いで狂えるものを。男たちは似たようなそんな放心の子供染みた表情を焚火に投げ、崩れの中の脆弱な頂に座る快楽に陶然としている。
白髪の男の先程頭をさげた女が土を喰ったのは随分前のことらしかった。以来男は穏やかになり髪も一段と白さを増した。狂った妻もよく眠るようになったと続けた。一晩妻と一緒に包丁を研いだという。膝から下を濡らした男が、囲ったはずの若い娘は買い物に町にやったが三日ばかり帰ってこない。雪が積もれば狩りにでるからな。谷ではいろんなものが流れてくるさ。などとと飄々と応えるでもなく呟いている。左耳を切った妻が翌朝の男の憤怒から逃げたと考えた白髪の男の口調にそれは違うようだと、まさか自らも判然としていない崩れの顛末を懐かしいような赤い顔で耳を噛み千切られた男はのっそりと繰り返すように語り始める。
男たちの赤く膨れた顔の照り返りを樹木の上から女の眉のような月が見下ろして笑っているかに輝いている。