ーどこから話せばいいかな。なるべく判りやすく話そうと思うんだが、話す事は上手くないからな。
幼い頃両親を困らせようとして、死んでやると思ったことはあるだろう?勿論本気ではないにしろ、一度や二度は誰にでもある筈だ。死ぬなんて一瞬のことだから、その時は簡単に思える。これから話そうと思っているのはこの一瞬のことともいってもいいかもしれない。
幸せはずっと続く方がいい。辛い事は一瞬我慢すればいいから、あとは時間が過ぎれば消えていく。人間の人生はなかなか都合良く出来ているなんて、子供から大人になりかける時に、これも誰でも思う。
つまり、時間というものが、人間の身体と心の外にあって、単にその束縛を受けて生を営むのが人間の儚い人生なのだと、人間は最初に諦めてから、生きるのかもしれないね。君はそうかい?そうでもないかい?今朝はさっきまで雨が降っていたのに、小鳥の囀が良く聴こえるよ。
私の場合、「時間を忘れること」に魂を奪われる人生を送ることになり、それがそもそものはじまりだと今は思うよ。過ぎていく時間や身体の栄養補給や様々な用事を忘れて、目の前の出来事に専心し、没頭し、自分自身の事すらどうでもよくなるような、絵を描くことからはじまったのだよ。そのまま同じ没頭が可能な人生を送っていたとしたら、こんな話などする必要もなく、うっすらと笑みを浮かべて頬を上気させたまま寡黙で凡庸幸せな人生を、省みることなく満足してその生を終えていたかもしれない。
まあ、没頭するけれども絵がヘタクソじゃ駄目だし、運もある。時代の流れや環境に影響されるからね。とにかく、私の場合は、様々な要因によって、幸せな没頭の持続を阻まれたわけだ。けれど、もともと夢中になるとどうにも止められなくなる性分でね。簡単な反復の幸せの放棄が反転して、何故?という疑いに没頭しはじめてしまった。この時の「問い」は、そもそも答えが無い種類のものでね。それは例えば、
「この石はなに?」
といったことで、突き詰めると、目の前に転がるモノ全て等しくわからなくなるパラドクスがあってね。ただみつめることしかできなくなるのだよ。
無邪気に問い続けると心の病にもなる。おそらく長い間鬱だった。自覚的ではなかったけれども、今振り返ると思い当たる記憶がある。この病は、「停止」に限りなく近い持続のようなもので、何も出来なくなる。救われたのは、時代の恩恵である情報や、没頭を切断する巷の喧噪だった。つまり余計な五月蝿い騒々しさが、この病の薬となったとはなんだか可笑しいね。混雑した駅のプラットホームに立ち止まると、大勢の人間の肩がぶつかる。座り込んでも蹴飛ばされるかもしれない。そんな光景を浮かべてもらえばわかりやすいかな。ただしこのとき、病の快復と引き換えに「途中放棄」を覚えてしまったわけだ。君もなんどか「飽きっぽいね」なんて言われたことはないかい?そんなことを言われるとムッとするけれども、この飽きっぽさは多分時代や環境のお陰で身につく処世術かもしれない。これがないと病みに陥るからね。
一日を時間で切り刻んだ授業を受けて育ち、数分のコマーシャルが規則正しく挿入された時間単位のTV番組を眺める居間で、家族が団欒し、遅刻すると首を切られる社会で過ごす事が、私たちの自明の環境であり、この環境も、「飽きっぽさ」がないと生存がむつかしいわけだ。適当に順応して、狡猾に立ち回る、所謂狡い人間ほど上手に生き残るからね。
なんか、判りにくくなってきたかい?一気に話したいんだが、なにせ話べたですまない。少し休ませてくれ。君も休んでいいよ。話をすることも、聴く事も、「飽きっぽい」スキルがあると、面倒だね。簡単に言ってしまえば、魂のことと、時間のこと。死んだらどうなるってことだから、また聴いてほしいんだよ。少しづつ上手く話せるように努力してみる。ー