「よくわかりません」

1月 7th, 2009 「よくわかりません」 はコメントを受け付けていません

良子の誤解は、夫が台所に立ち俯いて瞼を重そうに膨らませ、半眼となった瞳の奥に何かを点しながら、お喋りも断ったような風情で野菜を刻み、スープの味見をするのは、料理をすることによって独りの世界に入り込み、誰にも邪魔されることなく過ごせる時間であり、趣味を超えた自己に埋没する行為であるに違いないと、早くから決めつけていたことだった。友達や家族が訪れて憩う食事に、話題を振られると良子は客の耳元に唇を近づけ押し殺した声で、夫の背中を振り返りあのひとは台所が好きなのよと囁いたこともあった。良子は嫁ぐ前から、良妻賢母となる自信に根拠も無く満ちていた。同級生のカップルが誘ったドライブの助手席に座っていた夫に役所勤めかと最初に尋ねた時の返事は、否家業を継いでいると暗く響いたのを覚えている。だが実直そうで、それから二ヶ月が過ぎて忘れかけた頃、夫は電話で良子を誘った。
良子は、もともと目の前の出来事に翻弄されるタイプで、あらかじめ計画を立てて生きることは私にはできないと友人に幾度も漏らし、その度に肩をたたかれ励まされることが嬉しかった。結婚も、寡黙な夫の誠実さの片隅に鈍く光るような性的な眼差しに、この人はずっと抱いてくれると惹かれて、プロポーズを頷いて受けた。二年もすれば腹が膨れて、公園に集まる子連れのひとりになるとばかり楽観して、今時のマタニティーの様子や、子育ての本を捲り、朝食のテーブルで夫は小さな声で気がはやいなと、何度か呟くこともあったが、4年過ぎてもその兆候はなかった。

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