反閇の鎬

8月 25th, 2013 反閇の鎬 はコメントを受け付けていません

まだ闇を混ぜ砕く粒音が頭蓋を震わせる墨中景薄ぼんやりと揺れて誘う白帯の儚さの黒々とした砂浜の泡筋まで千鳥足でひき寄せられて膝までを崩し落とすとまずは腰から下の夥しい数の裂けた傷が潮で溶かされて皮膚の下を染めるように広がる徒な肉を直に逆撫でる悪意というより獰猛毒に似た痛みに奥歯に音を立て胃袋からの呻きの塊を宛ら折れた歯を吹き出すかに辺り構わずぼろぼろ零す。だがこの時、男の面縦横の目にみえないもので縛り続けられていた険しい張りつめた表情から緊迫がすっと消え、内側の肉の膨らんだ弛緩の顔へ変貌する脱力を借り尾骶骨を垂直に支えていた上からの綱を自ら唐突に断ち切る行成りさでぺたんと骨を崩して座し、終焉か始まりかわからないまま闇雲に目指した場所に到頭膝を折り畳んだ。辛うじて砂へ突き立てた両腕の骨に走破の残精の重さを軀を震わせながら預け背肉が緩く微動する弓曲の姿勢でやや上目遣いの眉を曲げ辺りの様子は見えるわけではなかったが男の走りの中で数多繰り返された広がりの理解は、此処の濃密に充満する介錯の気配が近寄る香りと巨大人の小水の異様を放つ泡波に撫でられる膝小僧と待ち構えていたかの身を渦状に巡る重く振動する音場自体に在った。見上げても天が定かではないのは海辺にぽつねん生々しい山ノ肉を黒烟が覆っているからだったがこの墨は自らの血肉毛穴から垂れ流しの気配の足で森の戒めやらを引き連れてきているからだと弁えた男は山ノ肉が潮に融ける時を待つように瞼を閉じる。光など必要ではなかった。

 絶えず走るようだった迂路往きの峠脇の森でも沢でも塚でも村辻でも田畑の中でも軀を幾重にも影にして素早くすれ違うモノどもは黙ってひとつ向こうを指差した。切れ長の瞼の隅であちらかと頷き街道を外し落差のある尾根から谷へ谷から尾根へ落ちては登り折れ枝に皮膚を裂かれ転倒し肋を折ったかもしれなかった。岩から滑落し軀を傷つけ濃霧に魘されつつ併し追っ手を巻く都合に助けられ山々の連なりを越えて駆け下り、蹴っても再び葉の刃で斬りつける膝より小さな半獣を俺の連れなのだといつしかそれにも慣れてまた蹴り飛ばし叩き殺し、灯りと月夜を避け光には身を晒さずに樹の根元と草叢の下を掘りあるいは小川の泥に顎まで沈んで蝦蟇の鳴く真横で眠り静まり漆黒の闇にだけすすむばかりだったから、時折山中に再び迷い込むと獣の嘲笑が男を囲うあまりに危うい路往き故に前後を失う眠りの淵で幾つもの懐かしい声を呼び込んで軀を休めたがその声の姿形は薄く弱くなっていく。小さな社の祠に潜り隠れ夜を待つ夕暮れに幼子を連れた老婆が覗き込み獣の瞳を見つけてなまんだと手を合わせひじりさまあと続け一度姿を消して暫くすると今度は独りで握り飯と煮付けた野菜を祠の前に置き再び手を合わせぶつぶつと家族の息災を祈ってから腰を曲げて歩み去る時背を向けたまま陽の沈む方角へ骨の浮いた曲がった指を示した。地が平坦に続くようになってから弱い響きが彼方に仄かに浮かび、気のせいであってもそれを頼りに草を噛み汁を吸って走ることをやめ、ゆっくりと素足を地に這わせるように歩むことで方角への迷いは消え憑き物どもはひとつふたつと落ちていく。

 暫く呼吸も忘れた放心後闇に慣れたわけではない薄墨の中で黒い瞳は軀の弛緩もあってか更に大きく開く。全身に覆い被さる波飛沫が幾度かあって、貌の穴から胸へ流れ込んだ荒粒の塩辛いものを咽せ返し背を丸め小刻みに身を割って咳き込む度に砂の中に臑が沈んでいく。一旦軀を放棄し四肢を放り静まってから膝は折ったままの姿勢で腹の上の弛んだ帯を解き脱いだ衣ごと丸め背後に放り投げ研磨の材かと闇の中でも堅牢鋭利を光らせる砂を手に掬いとり胸の大きく斜めに裂けた傷口に擦り込み新しい細い血の筋をつくるのだった。打ち寄せられ絡まった黒い滑りのある海草を指に絡めたまま背から斜めに走る痛みにも同じことを腕の筋を固く引き締めて繰り返す。これまでの刻印を場所の痛みへと変えねばならないと随分前から知っているかの男には躊躇いがないがこの海音の渦巻く砂浜には初めて辿り着いたのだった。傷口の更に増した痛みと自身の血を舐る指先が促し砂から掘り出すように固く硬直した茎性器を股から掴みだし腰まで浸かった波のなか研磨の砂が白く膨れたような皮膚に刻み込まれて残る手のひらでそのまま握って手首を動かすと途端に泡の中へ背を駆けあがる余所者の激笑の冷たさで睾丸からの途切れぬ綱となり白く幾度も続けて鼓動を貫くかに軀を取り巻く痛みの纏いを破り抜け痙攣を伴い麻糸のような精が吹き出され半身を前方へ屈して打ち寄せる泡の中へ突っ伏した。波泡の中の指先には潰れた海草が赤白く残って揺らいでいる。上空を舞う海鳥の目は彼の姿が腹を切り深い海底へ沈む間際の禿げた側頭に垂れた乱れ髪の幾重にも重なった者共の背と似ていると判別するかに長く鳴く。同じ格好の武者や漁師が砂浜に並んで果てている。あるいは臍下の鱗輝く半魚女の胸からは遠く重溶液の果てにまで匂い届いた山肉精の顫動を受け止めて未熟な乳が吹き出たと涎を隠さず耳を澄ます。彼方から潜むように一点を目指した飛沫の舳先の何者でもない眼差しは近寄るごとに寛大を膨らませ男を抱き殺す潔さで軀に向かって砕け散り尚涼しげな幾つもの瞳に分散した煌めきを闇に溶かす。尻と頭が逆さまになった背骨を抜かれた感覚のまま胸のどこかに類と奇が延々並んで忍び堪えようがなくなり何処から来る気概がわからぬまま半身を飛沫をあげて垂直にバネのような勢いで踊るように立ち上げて、即座に失速し落下するかに虚脱の黒砂地へすとんと飛び上がる前と同じ格好で項垂れる。波の中一度千切った憶えのある臍緒が発光する白い筋に重なり此処で命に結ばれるぞと肩口から亡父に似た声で囁かれる。何処から及んだかわからぬ蒙昧な錯乱をそうだなと振り返らずに応え交え肉の生に任せてから顎をあげ人の瞑った瞼のように眺められる淡く長く霞む水平の線を波の彼方に一筋捉えた。

 邂逅の動転が沈着し骨や肉の軋みが気泡となって景へ拡散し時をも失う佇み自体が誰のものでもないような意識となったのは墨が水平の瞼の眺めのうちに淡くなり拡張した瞳も徐々にその円径を小さなものとし残り滓のような細い蠢きの本能だけ使う加減で、男はふと何事もなかったような風情で立ち上がり、波泡の向こう側の深みへと押し歩み軀を海水でゆっくりと洗い時折頭まで潜って暫く漂うに任せた。まだ止血されていない太腿の傷から細く赤い筋糸が海中を先ほどの白い筋を探すかに揺れている。萎んだ睾丸を片手で握るといつのものだったか遠く置き忘れたかの綱の残りが途切れずに絞り出される。魂で充溢していた骨の中が空虚で漲り海底を覗きみつめる固い黒砂に憑依した眼光に無情の涙のようなものが溢れるのだった。渓谷の滝壺や渓流が交わる河の流れの中に軀を踊らせた記憶が余所者の口調で弱く鼓膜に蘇りながらもこの重怠い潮の中に在る空っぽとなった軀は初めて浮遊そのものを体現しているのだと縫われたばかりの衣を羽織る気分の軀に言い聞かせ幾度も溶液を飲み込みその度に干せずに咳き込んで吐き出しまた溶液の中で口を開く。皮膚が白く熔けて肉が萎んだ袋に成り果てるほど浮かんでいたのか知らぬうちに潮に流され岩ばかりの磯に流れ立ち、柔らかい生き物を踏み潰しつつ潮から軀を引き上げる。気づかぬうちに左手には岩の形の貝を握り叩き割って柔らかいものを喉に流し入れた。先ほど入水した砂浜まで戻りつつ黒砂浜に踵を沈ませて歩む人の形をあれこれ迷い試すうちに爪先が新しい四肢機能の活性をはじめる。瞳孔の縮小が間に合わない眉間の緩い皺の上に手を翳すといきなり空が割れ硬質な陽射しが幾筋も真横に近い角度で海原に差し込まれた。海岸縁の草叢に置いてあった麻袋まで戻った男は紐を解き捩れた腐肉の残る骸を引きずり出し抱き上げて再び波の中へ入っていく。途中喰ってしまった四肢の弾力が歯茎に残った貝肉も手伝い舌の脇にわき上がり、舌から涎が垂れ凹んだ腹が軋み鳴ると筋で繋がった臑の骨を引き千切って銜えたが海水の塩がそれを戒めるような味覚を与えるので噛み砕くのをやめ歯茎から筋を垂らしたまま波の中へ軀ごと潜り途端に静まった泡の形に広がる骸の長い毛髪を胸に受けて両手で押し出す。吐血を繰り返しながら連れていってと泣き崩れた骸の声が聴こえた。自身の陰の下の昏く透き通った海の底へ白い腐乱の骸が幾度も踊らされるように舞いながら吸い込まれていく。海底の岩の影に巻き付いて待っているわけがないのに白濁の筋が繊毛のように伸びて包むように骸に絡まっていくかに見える。喰わずに残った骸の左腕の手のひらが蠢き蒼く揺らぐ底に沈みながら弱く海の彼方を示すように指を差す。ぷわあとまるでいつしか海に住むモノの呼気の排出を垂直に吹いて漂い、海面に髪が濡れて張り付き頭蓋の形が浮き上がる晒し首のように頭だけを露出させると、遠い浜辺の湾曲の縁に小さく駆け出した幼子たちの裸体が幾つも光を受けて波の中へ飛び込んでいく人の世がある。

 やはり此処でも身籠らせるだろう。やはり走らねばならぬか。明るさに照らされた遠い水平線をみつめて男は淡い島影を捉え、憧れるような無邪気な表情を浮かべるのだった。


 

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