流涙

5月 12th, 2013 流涙 はコメントを受け付けていません

長いソファの両端に女は膝に両手を置いたまま背筋を伸ばし微動だにせずため息を堪えて唇を結び辛うじて小鼻だけ動かして呼気を吐きかんばせに薄く浮かんで現れるさまざまな表情を睫毛に指先で触れて無人の脱衣場で下着を脱ぐ幼気を真似るでもなく記憶を流して下に落とし男は半身を崩し左手で頤を支え俯き時折頚を埋めた肩をぶるっとひとつふたつ震わせ深海の遠吠えのような低い嗚咽を隠さずふたりの男女がその周囲の吸い込まれ吐かれる大気を二度と吸い込むことのできない重金属へ変成する鋳型となった軀で累々と涙を流している。窓の外の冬の陽光は朧な白い霞に遮られ時の速度が愚鈍に遅延するかに涙と光を鈍く混じり合わせいつまでも同じ事が繰り返されることを望むような色合いで彼らを支えふたりは傍らの存在を充分に涙の輪郭に感じ取りながらも男は濃度の増す血流の混濁の外へ女は氷原の白い植物のような寡黙さの上空へ飛翔したいと生存の指向を低いところから上目遣いで位置させつつ差異を尚一層強調して孤立する涙それ自体の示す自己を只管にそして白地に裏返った現実のリスクとして互いの涙流が決して交わらない確信の証となって流れ出るのだと得心する変成鉱物宛ら煌めく濡瞳をまずは重く成熟させるのだった。

男は立ち上がり流しの中へ頭を垂れ幾度繰り返したかわからない中身の無い嘔吐を細く長く落とす。蛇口から弱く流した水を頭にあびて結露で濡れた硝子戸を開け途切れ途切れに息をするとその最後に腹が縊れた逆転の痙攣を催して喉からヒューと音が漏れ白い吐息を吹く口元が弛緩して笑う般若の面となり太腿に少量を漏らして小便がつつと膝のあたりまで垂れたようだった。窓硝子の向こうの靄が幾度も形を変えるのを濡れた瞳で真っすぐにみつめるでもなく眺めていた女はその形が辛夷の花びらだと気づくとゆっくり握りしめて痺れた指先をひらいて立ち上がり見知らぬいきものを眺めるように瞼を切れ長に溢れるもので潤ませたまま男の背へ振り返り彼の為にため息を堪える必要はないわと唇の力を解き自らの軀を取り戻すつもりで歯の裏に舌を添える。申し合わせたように女と男が入れ替わり女は頬を流れるものを拭う事もせずに夕食の支度をはじめる。ソファの同じ場所で先程と全く変わらない姿勢で嗚咽と痙攣の反復にむしろ落ち着いたような男の中にこの涙が涸れることが現在の切迫となって膨らみはじめ或いは男は女のためになにか発声すべきかと幾度も考えながらそれができないまま深い底へ沈む堕落を選ぶ。気怠さが自分をふいに裏切って色情に変わる小さな怖れを指先でかき回すように萎れた野菜を洗い俎でこん..こん.とリズムを避けて包丁を使った女のこしらえた色彩の乏しい野菜炒めと解凍した白米の他に彼らの食卓に見合う食事はない。同じような夕食を幾日も繰り返している。ふた口箸の先の白米を口に入れて立ち上がった女はドアを開け外へ出る。女が含んだものを叢に吐き出した気配を弱く聴きとりながら男は女の衰弱を受け止めることでやや意識を戦慄きの外へ取り戻したように汚れた下着を着替えたが、暫くしてから女が唇を手の甲で拭い取る仕草を爪先の歩みの速度に乗せるようにして外から戻り食卓に座しなんらかの促しを待つ淡い目付きで男を凝視したが夫は無力無能であることを敢えて説明するかに涙を垂らし顎をひいて俯き背を丸めて犬猫の如く飯を啜り喰う。男は夜半になると必ず呑み続けた酒はもう欲しいとは思わなかった。

妻は湯槽の中では声を漏らして泣いた。その自らの嗚咽のエコーを蝸牛記憶に耳を澄まして焦点の失せた幼児のような瞳で今度は押し黙って必ずそのままベッドに横たわり薄いタオルケットを全身に巻き付け身を固定して枕元の灯りを消した暗闇の中長い時間瞼を閉じることはない。気づかぬ内に眠り気づかぬうちにくっきりと同じ姿勢で目覚めその鋭利な瞼の輪郭で夢など切り捨てるように忘却する反復を狂いなく正確に行えば自分の呼吸は止まらないとだけ女は考える。男は女を後ろから抱くように寄り添って幾度か共に眠ったが触れれば必ず柔らかく解かれた女の軀は稜線を保ちながらも濡れた繭となり男の火照った手首がまわされた女の肌も骨も照応の気配はない。男は屡々そっとベッドを離れ場所を移動してキッチンの床やソファ洗面所や書斎の床に丸くなりふいに立ち上がって蛇口から大量の水を呑み明け方まで弛緩した嗚咽と失神のような浅い眠りを繰り返す。時折夢と現実が入れ替わる目覚めの驚きが男に訪れる一瞬流れるものがなくなったかに目元が乾いたけれども両手を眺めて馴染みの軀へ戻りやはりまた痛みに咽ぶかの流涙にまみれるのだった。男が肌を寄せても深夜に物音をたてても女は変わらない姿勢で瞼を開けそして瞼を閉じた。女の朝は月経の痛みの血が涙となったかの日々となり生理ではなくても下半身が重怠い。朝早くから黙々と草毟りをする男の丸い背を時折ぼんやり見つめながら取り込んで畳んだ乾いた物まで広げてあたらしく汚し洗濯をする。男と女が泣きはじめて幾度か他愛なく交わした会話があったかもしれないが即座に亡失する囁きであり交わされて発酵する意味を持たなかった。ふたりとも涙の止まる時はあったかもしれないが喪失の会話と同様流れ始めれば空白の乾きを流し去った。女は潤んだ瞳だから男のことが以前よりもよく見えないのできっと彼もそうなのだろうと弱く幾度か陽射しの下で思った。

遅かった春が過ぎ新緑が眩しい季節になってもその眩しさはふたりにとって流涙を促すだけであり日々の健やかであるべき営みの些末な仕草や感覚を都度白い空白で包んで風船を空へ飛ばすようにどこかへ喪失させる為に必ず夕刻からやはりソファの両端に同じように座るのだった。ふたりを心配した来客があり二泊ほど一緒に連れ立って温泉宿に日帰りで付き合い夕食の時は笑っていたと客は帰り道胸を撫で下ろしたけれども、見送った男と女は服装を着替えるように表情を落としソファの同じ場所に座って頬を光らせる。どちらからともなく流涙が戒めた禁忌の緊縛を踏み越え交わった夜もあり互いに一層泣きながら互いの頬を拭いつつ女は男の皮膚を傷つけ男は肉を強く掴み堪えた力を吹き出す時として了し塩辛い口を吸い合った。床の中で濡れた瞳と瞳が真っすぐに繋がっていても互いの瞳は涙の湧き出る深い淵となって捕らえどころなく差し出した指を噛んでも皮膚を嗅いでもその深さは変わらない。交わりの果てで性器からも涙があふれていると女は男に代謝の声で囁いて浮き上がった初めて出会った者同士の表情をふたりは隠さない。夏になり蝉の鳴き声が五月蝿くなったある朝ふたり同時に泣いていることの羞恥がすとんと失せこの時から瞼が赤く腫れたまま頬を光らせたまま買物に連れ添って出掛けるようになりそれを奇態として度々姿を見かける近隣の住民からひそひそと在らぬ差別の噂が聴こえるようになったが、この奇妙な家に郵便を配達する若い男もありがとうございますと時には受け取る男が涙を流していても反復のうちで奇妙と思わなくなった。ふたりの立ち姿もどこかたっぷりと地に生えた風情を醸し近隣の揶揄めいた風評も男と女にとっては意味はなくその表情を辺りは垣間みて弱く萎えていく。

盛夏には多くの友人が訪れてふたりの泣き濡れた様子に驚き時に慰めの声をかけ時に道化て笑いを呼び込む努力を繰り返し或いは一人の男がお前たちいい加減にしろと語気を強めることもあったが変わらずにいるふたりのある種不動の姿勢とはいってもどこにも頑固は見受けられない植物のような佇まいにやがて声を失い幾度も振り返るように帰っていく。哀しみの感情が涙に張り付いていた時間を気づかぬうちに踏み超えたふたりには流涙自体が黒子のような一点に昂ぶる感情を示すだけのものではなくなりつつあり猛暑の中の全身からの発汗であっても便座での排出ですら涙とのつながりが感じられ、延々と溢れ出ることはむしろ穏やかで清心な振る舞い仕草のひとつと結晶化されたような感触が軀に繊維のように広がっていた。はじまりは哀しみと憤怒で涙が流れた筈のふたりだったが流涙のカーテン越しに壊れを隠さない互いをみつめるうちに涙そのものが肉体に対して修復する精神の楔であると気づかされると同時にこの身体的特異の持続を許し認めることができるのは男にとってこの女でしかなく女にとってこの男の他は存在しないのだった。

初秋ひねもす流涙は女は古着を直す裁縫や木花の手間に支えられ一時の冷たさからやや温かくなったように感じられ流れるものも粘性が消え頬を水滴となって転がり落ちるようになり男へ振り返えりすっかり狂ってしまったわねとほんの少し微笑みながら泣く。一年を休職とした男のそれも嗚咽が消え初期の女のように背を伸ばした軸から結露のような自然さで零れるような感触となり饂飩を打って茹で上げた食事も時折こしらえる。少量の夕食もふたりとも嘔吐することなく残さずにゆっくり時間をかけて食べることができる。腫れ上がった瞼も皮膚が破れたようだった頬も落ち着いて白く透き通りある種清明な表情を顕しふたりとも泣くことが生の営みに静かに落ち着いたと頷く。葉の落ち始める頃にはふたつの植物が重なるように静かに幾度も交わった。男は雑草を毟り土を弄り植えたものを収穫する早朝の庭の植物に触れて濡れた朝露が自分の涙と似ていると離れた場所で水をやっている女に声をかけると女は私もそう思うと答える。男は続けてやがて私たちが涙を流しはじめた冬の日が来る再び凍りつく同じ時を巡り繰り返すかもしれないがそれでもいいかなと女に尋ねると女はそうねそれでいいわと頷く。

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