謬愛の地

10月 21st, 2012 謬愛の地 はコメントを受け付けていません

牛蒡の根を銜え横腹の痛みを堪える男は二つ谷向こうに下った山崖に手のひらの格好で浮く窪地の小さな集落縁に在る倹しい家に残した妻が朝方子供の頬を平手で打ったことを思いだし唾を吐き水の引いた淵跡に近づくと犬の首に紐を繋げる。束縛を厭う犬は小さく歯茎を捲り唸ったが男の手で頭を小突かれ地に尾と顎を伏す。大きな者に吹かれて流れ去った白霧が残した朝露に濡れた犬の腹を撫でた指を舐め男はまた牛蒡をしゃぶる。つま先で吸い込まれた水の形を残す地を掘れば濡れたものが見える。雪解けから初夏迄窪みに水を張る涸淵は水が地に吸い込まれてからまだ然程時が過ぎていない。

夢をみなかった隻眼の男は老いた親たちの寝入る布団の膨らみを炉のさきに一瞥しいつもより早く静かに寝床を抜け濃霧の薄闇を残す時刻から牛の乳を絞って脇で大人しく朝飯を待つ老犬にすまんなと声をかけつつ首輪をつける。互いが犬を連れて行けば噛み合う。残飯に湯気立つ乳を注いだ器に鼻先を突っ込んで飯を食う老いた獣の背に手を乗せて視界の晴れない森に入るので一緒に行くかと声をかけた。朝霧は季節が出鱈目に入れ替わる倒錯を示し時の逆さまを思わせる。峰を見上げたが庭先の樹の先も白く溶け風もなく上下わからずひんやり何時のものかわからぬ冷気だけが皮膚に降り立つ。潰れた眼の奥に失った小さな後ろ姿が幾度も白煙の先へ走っていく。

牛蒡を銜える男と隻眼の男は二十日ほど前の祭りの夜にこの日の約束をしていたが、落ち合う場所とした涸淵は単に彼らの離れた住処の中央に位置していたばかりではなく、どちらともなく彼処と示し示された時に即座に了す場所の理解と、涸淵の凹みの森の穴の特異な清潔が誰にも邪魔されない頷きを促した。噂を聞いてふたりの男は祭りの夜この地に根を張った谷や高地の女たちとは異なった煽てられている軽く明るい巫女のような絢爛を四肢に纏う町から来た紅葉を陶然とみつめ口を開けたまま貌を合わせ隻眼の潤んだひとつきりの水溜りのような目玉に映り込んだ牛蒡を銜える男自身の弛緩を認め、一度は地に落とした牛蒡を拾って泥を拭いもせずに再び銜えた谷間の猟師の乱杭歯に男の獣を自らの中に膨れるものと違い無しと隻眼の男は受け止めた。ケラケラ笑う紅葉は方々から投げられる噂のあれこれを「かもしれぬ」などと繰り返し注がれる酒を羞恥なく受けたが酔って倒れずに延々と子から老人までのみつめを吸い取り時折周縁から冷たく注ぐ地の女たちの斜視にむけて眉を解きカマイタチの目を臆すこと無く返した。数の知れたこの地では勝気で奔放な浮遊の存在に男どもは等しく好奇を女たちは嫉みを含んだ蔑みを抱く。

あれからみたか。老犬を短い紐の先に従えた隻眼の男に向けて其処に止まれという意味の発声で牛蒡を口の端に寄せた男は再び唸り始め綱を張り前足を浮かせた犬を手首の返しで戒めてひとつ言葉を置く。十日ほど前に乳をくれと来たが俺と父親は草を弄っていたので母親が乳を渡した。どうやら社の脇の茶屋で飯盛りの手伝いをはじめたらしい。熱り立つ獣など眼に入らぬような老犬は隻眼の足元に踞り足りなかった眠りの続きをはじめその寄せられた腹が男の足首を温める。牛蒡を噛み砕いて吐き捨て胸から別の牛蒡の根を取り出し前歯の隙間に銜え込み男は左横に倒れ朽ちた樹に手綱を縛り付け足の先でまだ唸る犬の尻を小さく蹴ってから数歩動いて木株ほどの石の上に座し煙草はあるかと尋ねる。お前は嫁も子もある。紅葉は俺の妻にする。残り少ない凹んだ煙草の箱ごと揺れる牛蒡に向けて投げると隻眼の男は背を返し戻るぞと老犬の首に手を置く。涸淵から迫り上がる途中で背後から座したまま口元で火をつけた牛蒡男がお前では無理だと煙草の煙と言葉を同時に吐く声が投げられ隻眼の男は一度振り返ったが再び踵を帰り道に返し老犬の歩みに促されるまま進む。座ったまま牛蒡を煙草と間違えて吹かした男はちっと唇を噛んで妻の癇も片目の生意気もこれと同じでいつか消えると横腹の疼きに指を差し込んだ。

紅葉は手伝いをはじめた二日目に茶屋の誰彼問わず絶えず喋り続ける老いた主に弄ばれ社の裏では町からの使いの若い男のされるままに身を預け遠方より詣った者たちへ料理を運びながら昼間から潤んだ余計を目元に溜めて節操無く与えていたが、この地の閉塞と女たちの差別的な奇異を突き刺すような眼差しに日々不快を募らせる。しかし同時に町中の高慢な自意識ばかりの軟弱な男どもの脆弱に辟易していたので祭りの夜に姿を眺めた地の森や高地や谷で身体を蠢かす男らの強靭な躯の揺れ動くカタチはいつまでも残り早々に何処かへ変転しようとは思わなかった。幼少から転々と見知らぬ大人に預けられ虐げられた自らが清明な生物であるはずがないと弁えていた紅葉は時折町へ降りては余計を買い込み戻って茶屋の主をたらし込み物売りの店を持ちたいと囁くのを忘れなかった。あの化粧は逃亡の技でありどこかに追われている筈だと畑の中で寄り添う女たちが風評をこしらえたが夜の晩酌で話題となっても男たちのほうがまあいいじゃないか参詣客に評判が良いじゃないかと紅葉を擁護する。

馬が欲しいけれども手にはいるのかしら。手のひらを額にあてて牧舎を仰ぎながら紅葉ははじめて隻眼の男の前に立ちまだ温かい乳の入った器を片手で胸に抱いていた。隻眼の男は馬のことには応えず餓鬼の頃牛の世話をしている時に後ろ足で蹴られて片目を失い両親の手伝いをしていると一気に勝手に喋り、それをみた紅葉は口に手をあて笑うのだった。妹がひとりいたが潰れた目にかかりきりだったふた親は目を離し独りで流れに足を滑らせ亡くした馬は数頭あるが父親にきいてみる嫁にならないかと不躾を小さく加える。紅葉は紆余曲折のない男の実直な塊を瞬きもせず目の前に突き出されたことに動転し小娘のように顔を赤らめてから、お父様に馬のことを聞いてくださいねとだけ言って走り去った。この時紅葉の空虚に開かれた傷口に隻眼男の贖罪が塗り込められたのかもしれなかった。

山襞の起伏を賛否のざわめきの波が幾度も寄せた後祝儀が行われ隻眼の男は紅葉を嫁にした。牛蒡男は半ば犯すような強引さで野道の脇と夜の社で紅葉を押し倒した。一度目の紅葉は牛蒡をしゃぶる餓鬼をみつめ下し女獣の傍らに幼少時遠方へ引き離され離別した弟の涎まみれの口元を浮かばせて微笑み身を開く。二度目の中途で祭りの夜の絢爛が剥がれ落ち獣からヒトに変わった女の様子に気づき身を放し背を丸めて泣く女を残して谷間の家へ戻り二人分の獣肉を平らげ横で子を膝に抱いた妻に酌をさせ憑物が落ちたかと酒を煽ったその夜小さな妻と長々と交じった。茶屋の主は家内も認めた妾であった筈の女が牧人の嫁になっても言うことを聞くだろうと耄碌した頭で高を括ってべらべらと喋り続けていたが、隻眼男の横で世話になりましたと頭を下げられてから使いをだしても紅葉は茶屋に足を運ぶことはなかった。祝儀がどこか静寂に支配された奇妙なものであったのは新郎が新婦の悶着を全て堪え込んでいたからだと地の女たちは頷き合い、ヒトツメには女がみえないと酒の席で野次った主の茶屋から客の姿が消えた。馬は嫁入り前に父親の許しを得て紅葉に与えられカズと名付けられた馬に乗って隻眼の所へ乳をもらいに行く紅葉の姿が雪降る前ひとつの季節度々地の男女に眺められ通うほどに人が変わると囁かれた。馬のお礼と紅葉は老いた親たちに飯をこしらえ時折牧舎の手伝いもはじめた。紅葉は幾度か隻眼の男に自身のこれまでの壊れの全てをひとつ残らず打ち明けて預けたいと言い寄ったが隻眼の水滴の目玉の透明は何も言わなくてもよいといよいよ深く透き通るばかりであり、それでもひとつきりのその水滴が自分に注がれれば朽ちている躯の中に落ち広がって自身の軸を洗い流すと紅葉は信じた。だが隻眼の透明は実は片目眼帯に隠された潰れた眉間の底の白濁の中の小さな黒点のように消えない喪失にまだ支えられており黙したまま紅葉の髪を撫で潰れとヒトツメの何処か遠い中央にぽつんと浮かぶ鉱物のような寛容が紅葉への情愛のかたちと知る。

水のまだ残る涸淵の中央に牛蒡を銜えた男がやはり唸る犬を堪えるように従えた男子供と連れ立ち以前より近づいた場所に隻眼の男とその妻である紅葉が生まれたばかりの子を包み抱きやはり半ば眠りの中にいる踞った老犬には首紐などない。どれほどの時間が過ぎたか彼ら自身よくわからない。二度の祭りの夜彼らの姿はなかった。牛蒡を銜えた男は犬の重さに耐えきれない子供の拳の犬紐を朽ちた樹木に縛り付けて近寄り両手を差し出すと紅葉は赤子を牛蒡を銜えた男に抱かせるのだった。口元の牛蒡に手を伸ばした赤子のさせるままの牛蒡男の半眼の瞼の奥に隻眼の水滴に似た水の音が聞こえるようだわと離れた水際の老犬の眠りを真っすぐにみつめる男子供の頭を撫で紅葉は思った。赤子を紅葉に戻してから背負い袋から取り出した獣肉の包みを隻眼の男に差し出した牛蒡男は、唇を尖らせてぷっと牛蒡を吹き飛ばし今度一緒に狩りにでるかと口元を曲げる。涸淵の水は彼らの足首を隠すほどにやや増えたが彼らは気にもせず樹々のようにいつまでも風に揺れている。

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