腕落ち

7月 7th, 2012 腕落ち はコメントを受け付けていません

遠い時間の向こうに顎を寄せ頭骨が髪の生際の皮膚を薄膜へ張りつめる耳の裏に歯をたてた覚えはある ー が名を忘れてしまっている女が恰も自らの股からぬるりと絞り出して放り ー 色の塊を叫び吐いた口元のカタチが細い顎に残され ー そして離れずに獣の一部のように蔑んでみつめる裏腹な距離を意固地に保って向こう岸のモノよ下卑た解釈を加えてから今一度自らの血肉を整えて拒絶するかの女の、ー 出来れば誰もいなくなってから隠れて持ち帰ってしまおう。それから考えるわ ー 赤い舌に強かに陰る淫猥な滴りの瞳に乾いた斜視が男の目玉に宿り、あるいは抱いた女よりも遠い記憶の陰の黒い骸の女親から無用が移り遺ったと幾度か考えたことのある面倒に似た違和ばかりの発疹のようなしきりに痒い重い瞼を、瞑ろうとも瞬きもせずにぐったりとたっぷりとそのままに立つ恣意を昂らせる気配が役者のようでもある皮肉を輪郭に微動させる男の、落ちた腕を眺めている姿は無表情を頼りにしていた。

散々こんなモノ見てきた。愚痴をまず吹いてから呼気を淡くさせ脈動は途切れた筈だがいまだくっきり膨れ皮膚を卑猥に巡る血液の巣穴管の膨らみを件の女の目玉が裏側にまで届くように反復し奇異と欲望を米粒に集めるかに眉間熱く灯る理由が彼にはわからない。笹の葉が脹脛を切り裂いた傷口に腰から流れ乾いた肉塩が染み込み黒く乾いているが酷く痛むので陰茎をつまみだし落ちたモノのよこへ小便を細く長々と湯気を白くにおわせ垂らすことが錯誤を紛らわせるよりむしろ奇怪が融け混じって身に近づくのだった。地も森も辺りの景色の深さが浅く薄い切絵の層となり交互に重なり弱くかさかさと動くので雨でも降ってくれれば張り付くかと男は思った。

走りはじめて峠のような起伏を幾つも超え腰迄沢に濡らし一度墨闇の農家に忍んで葉の萎れた大根を懐に掴み入れまた走り歩きもした峯の近くの岩の陰で味の抜けた塊を根から浮いた淡く痛む歯で砕き袋に詰め込むように腹に入れ二日経ったかと西を振り返っていたが日を繰り返した覚えはなかった。どこかに速い流れを使った回り道があってこちらを薄笑いで待ち受ける追っ手らが一列に並ぶ幻影はいよいよ頭瘤となり諦めを隣にみえるようにしたまま躯の肉の動くかどうかそのことばかりを対に立て思うでもなく考えていたことを憶い起こして灯火に加えるようにぽつねんと自らも景色の薄紙となった心地でやや広げた落ちた腕の指をひとりの目玉で辿りそういえば夢をみる眠りもなかったと言葉がこぼれた。

あと二日走れば海にでる。海をみればどうにかなると知るわけでもなかったが流離いの示しとなった幼子の示唆に満ちた波音地味た声が歩みの底や走りの首筋にしきりに聞こえあれは誰の子だったか。待ち伏せがあったとしたら事前に悟って別の筋を探せばいい。いかにも簡単に折れてしまう気楽を投げ出して腰を下ろし背負った袋から千切れた布を取り出し、この地へ走り込んだ際に倒れたまま呑み干した溜まりの泥水へ歩み戻り布を浸して絞り首から肩を拭い今度は両膝を折り座って両手で掬おうとした時におぉと溜め息が零れあの腕はこの自分のものだったと気づくのだった。男は布が風に揺れるように地べたに倒れ喉に溜りが流れ少し眠ろうと瞼を時間をかけて閉じた。

サトルはと自らを名で言葉にする小さな男は子供のような背丈であったが歳は横たわる者の倍はありそうな老いを蓄えた丸い鹿の目玉を注ぎ込むように落とし横に座り湯気のあがる器を差し出すと小さな腕が幾つも背を支え半身を起き上がらせた。さては腕の村にでも迷い込んだかと目覚めてから夢をみることもある。馴染んだ確信に満ちて男は白く濁った頭でさきほどの走りの止まった叢の足元に転がった腕を浮かべた。

「お前を喰ってしまってもよかった。ソノがやめろといった。殺めた香りがする腕はほれみてみろ婆が繋いでみたぞ。指など動かぬかもしれぬ。鬼女が飯をこしらえてくれるから食べよ。サトルは狩る」

小さな独言を目玉を反らして小さく転がすサトルが男の腿を手で掴みげぇと腹から音を出して小さな歩幅で歩み去ると背後から男の口元へ杓が寄せられ湯に咽せるものを唇にあてがわれ一口飲み干してから細い干し草のようなものでつなげられている動かぬ腕に気づいた。庵というものでなく草叢を束ねてあつらえたような筵を束ねたようなものの中に男は座り背後には女がふたりと子が五人黙座している。幼子三人は女で下は歩き始めの小さな体だか瞳は黒く丸く強い。ソノと指差された年上も女だが十二三を越えたあたりかモノに突き刺すような眼差しを隠さず下の二人の男子供の呆けた表情とコントラストを分け性の萌芽への憤怒を年下にもあからさまに向けている。ただ子らは皆言葉を知らぬかに黙し細った白髪も見える女の細かく動かす指先の紡ぎものに度々目が寄せられる。若い女は足を横に投げ顔つきを俯いて暗がりに隠し小さな黒い瞳の子を獣のように抱いた。
兄弟にしてはあまりにそれぞれ特異な顔つきなので湯気の汁物を全て腹に入れ終えても横にならず男はあの女の子らでないと判った。右腕の肘上あたりが麻糸で縫われていたが痛みはなくあぁ落ちていた腕をあの指で繋げたかとぼんやり思うのだった。

籠から四本の太綱の蛇骸を取り出したサトルは顎先で年上の娘の前にひとつ放り投げるとふたりは尖らせた枝の先で器用にしぃと音を立て皮を剥ぎ腹を縦に裂き同じ枝先で臓をこすり落とした。

「皆盗った。俺に子種がねえかフジの子宿が壊れたか。気にいらねえと愚痴るから生まれたばかりをいくども狙ったがフジはテメエの腹を呪うのだ。この季節は蛇に肉がないからしゃぶるのだ」

男は自分の腕が深々と躯にぶつかるように刃で切りつけられ深く裂かれかろうじて繋がったモノをぶら下げて走ってきたのだと白髪の女の小さな吐息で憶いだした。フジと呼ばれた若い女は白いのっぺりとした面を光の元へ出してヨネは縫いものがうまい。唇を尖らせて添い寝の夜を求めるように男に向かってつぶやいた。鉄釜に葱やら芋を煮た汁の中の丸まった蛇肉の細骨を吸うように喰う子らの尻には鼬の毛皮が敷かれサトルは蛇汁を口にせず茎のようなものをしゃぶりながら虫骸の混じり浮く白濁した酒を呑んでまた一人で喋り始めた。

「お前の腕は千切れたわけではなかったぞ。ただお前は長いこと色の変わった腕を眺めて倒れていたがその訝しい瞼を閉じなかったので怪しんで近寄らなかったが鼾が聴こえたので寄ってみれば腕が落ちたと寝言を漏らしていたわ。ふぉふ。海に出たところで何もないぜよ。季節がひとつふたつ巡る迄サトルを手伝え」

親指と人差し指で楊枝をつまむまでは動いたが他の指は丸く手の平の中に固まったまま黒い色をしている。男の子供と皮を剥き火をおこし大蒜の住処で冬を越え乳の匂いが消えるまでフジは時折近づいてその大方腐った手首を膝に置き拾ったものに投げる同じ目つきで幾度も撫でるのだった。此処でも波の音はよく聴こえると男はその度に思った。

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