あんじ

6月 10th, 2011 あんじ はコメントを受け付けていません

土間のたたきの縁に座って椀を持つ男は、地べたに唾をひとつ吐いて残りの蕎麦をかき込み、つゆが今日は薄いな。湯気の中の主に声を投げてから、狭い囲炉裏のある居間の鴨居に吊るされた祭羽織をみあげて、あんた今年は立つ番かい。独り言のように呟いた。

あんじは、湯気の中の主に睨まれて、蕎麦の椀を置き、細長い木の台の上の、客が残した椀を重ねて隅の桶に持っていき、指先で濯ぐように洗ってから腰にさげた手ぬぐいで水をきり、音をたてないように主の背中の敷居の上に重ねてからまた戻り、残りの蕎麦とつゆを音をたてて腹に入れた。

ひとり客が暖簾を分けて、おうと声をかけ、顎だけ少し動かした主は、あんじに向かってまた睨み、表のほうへ目玉を動かした。蕎麦終了と書かれた木の札を入り口にぶら下げたあんじは、通りの向こうの辻先から小さくきゃという声を聞いた。ぱたぱたと人の走る音がしてから数人の、近所の商いの人間があんじの横を走り去り、そのままいっとき静まってから、袴に黒い返り血を斜めに浴びて胸元から血糊を拭ったような手拭がはみ出た男がひとりゆっくり歩いて来る。あんじの前に来て、もう蕎麦はないのか。腹が減ったと、男は泣いたような赤い目をしてあんじを見るのだった。

店に背中からずるずると戻って振り返ると、さきほどの二人の客の姿はもうない。湯気の主は、逃げた客の一人分はあると仕草で伝え、湯気の中の蕎麦を掬い出した。あんじは、店の前で立ったままの男に、やや声を震わせてどうぞと声をかけた。

腰から鞘を抜いて脇に立てかけて土間の台に座った男は、主のつくった蕎麦の湯気を口を尖らせてふうと吹き、ゆっくり食べはじめた。割れた暖簾の向こうには数人の足が見え、遠巻きに男の様子を探っているらしかった。あんじは、最初は誰かを斬りつけたばかりの男の、血に濡れた姿に怯えたが、よくみればそれほどの大男でもない。着物も汚れた余所者と思った。

蕎麦はもうないかと男が声をだし、主が握り飯ならと皿に漬け物を添えて、あんじに男のところまでこれを運べとまた顎を突き出した。男が濁った色の握り飯を口に放り入れ、皿と一緒に置いた湯のみを左手で持ち、交互に口に運びはじめてから、あんじはそっと近寄り、もっと飲みますかと声をかけ、ああと湯のみを差し出した男の顎の下から喉の奥に向かって、竹箒の柄を突き刺した。

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