「電話でかあちゃんに家を出ろっていわれてさ」
小学生の時だぜと他人事のように眉を曲げて川本は両手の中の酒を暖めるように口から遠ざけたまま唐突に話はじめた。
両親は昼間からすでに船に乗って逃げた後だった。本土の駅から電話したんだと思う。学校から帰った頃合いを見計らった。二階の押し入れの布団の間に封筒があるから、その中に入っている金を持って駅に行け。書いてある所迄弟を連れて来い。母親がきいきい早口で喋るので、五月蝿くて一度電話を切ってしまった。怒鳴られると反応するストレスがあの頃からあった。俺は悪い子供ではなかったが、聞き分けの良い子供でもなかった。電話はすぐにまた鳴った。
両親は借金取りから夜逃げしたわけさ。子供を置いていったから昼逃げか。余程切迫してたんだろう。川本はフンと鼻を鳴らした。
山岡が再びナイフで枝を削りはじめた。坂上も頷くでもなく、相槌をうつでもなく、火の粉が立ち昇る上の方へ顎を上げると、枝の隙間から銀河がパウダーのようにみえる。
四つ下の弟は、入学したばかりだったから、言い聞かせてもランドセルを背負っていくといってきかなかった。電話口で、二度と言わないぞよく聞け。父親が、電話が鳴ってももう受話器を取るなと悪代官のように怒鳴った。ランドセルの中身を靴下とアノラックとかの着替えに入れ替えて、俺もリュックに今思えば笑ってしまうようなガラクタを目一杯詰め込んでいたから、駅迄乗るバス停に立った時は夜になっていた。あの時は夕飯はどうしたのかなあ。憶えていない。多分母親が何かつくっておいたのかもしれない。住宅地のアパートだったから、勤め帰りの近所の大人が、どうしたと声をかけてきたが、両親のきつい声が鮮明に残っていて、下を向いたまま黙っていた。次の日には噂がさあっと風のように広がった筈だ。
カラっと氷を鼻の上で鳴らして、坂上はグラスを飲み干した。
封筒の中に書かれた住所を駅員にでも見せたんだろう。これも詳しく憶い出せない。警察に通報されなかったのが、今思えば不思議だ。おそらくありのままを駅員に喋ったんだろう。親が待っているからとか。がらんと空いた夜の列車の車窓から、弟と暗い海を眺めていた。このまま誰もいない場所にいくしかないと考えるでもなく感じていた。離れた席から初老の女が近寄り、おとうさんとおかあさんはと尋ねながら、飴を一握り俺の手のひらの上に乗せた。黙ったまま受け取った。弟は笑いながら飴を口に入れて頰を膨らませた。俺は正しいのに、回りがどこか間違っているとこの時に思った。その感触は今でも続いている。はじまりはあの夜の列車だ。
「嫁さんには話したのか」
川本の言葉の途切れに一拍置いて、視線で酒を呑めと促しながら、山岡は手元のナイフの動きを止めて尋ねた。
弟が遊びに来て、ワイフの手料理を喰いながら、そういえば兄ちゃんと話しはじめたが、奴の記憶では、どこにでもある旅行とどこにでもあった引越が一緒になった唐揚げみたいに健全に省略されていた。それをどうこう諭す意味もなかったから、奴もワイフも知らない。のこされた母親も触れたくないようだし、お前らが喋らない限り、なかったことにもなるな。まあ、フィクションでもいい。
川本はここではじめてグラスを口に運んでアルコールの表面を舐めるようにしてから、視線を坂上のように銀河へ向けた。