「あんた、なんでそんなにがんばるの」
古い友人が最初に焼き鳥屋でそういったなと、篠田は憶いだした。相手は遣繰りの為、ニ年前に金を借りた遠い親戚の女性だったが、同じような口調で、
「ちょっとは自分を大事にしないさいな」
告げるようにして、向こうから電話を切った。
借りていた金をようやく全額完済した旨を報告する連絡を、出向くには仕事があって無理だから電話で済まして申し訳ないと、最初はこちらから一気に喋っていた。返済すれば何の不平等もない筈だが、借り手と貸し手というのは、その出会いによって力関係が決定し、それは以後変わらないと、相手の声の中考えるでもなく思っていた。
母親の妹の夫の兄にあたる人が亡くなり、その妻に、秋おそく土産も持たず結構な金額を、貸していただけないかといきなり玄関で頭を下げ、そのまま家にもあがらずに、助かります。女性の足下に広げた借用書に息を吹きかけ印を押し、はじめて訪れた地方都市の駅から最終に飛び乗ったが、結局乗り継ぎの東京のビジネスホテルに身を投げて、胸から取り出した小さな手帳に借り受けた金額を記入して、ビールを飲みすとんと眠っていた。電話から手を離さずにそこまで妙にくっきりと浮かべてから、仕事の残りへと戻った。
方々へ相談して、店の状態をつくりかえると息巻いて、数の計算も繰り返し、よしと小さく言葉に出してから、目立たぬように汗を流し続けた。最初は町の寄り合いで馴染みの老人から、あんた痩せたんじゃねえかと、近寄られた。コンビニのまだ30代の店長も、精が出ますねと、盛夏の頃、買い物の内容を覚えられたかと、笑顔の応対に小さな不安が差した。確かに、イメチェンをした店には長い付き合いの常連客もいて、切り捨てるつもりは毛頭なかったが、最初はそう思われて、いやいやパンク修理でも、なんでもやりますと、一度は片付けた廉価な通勤自転車を注文して、客層に応えようとして、結局それでは駄目だとわかるまで、性格の異なる商売を掛け持ちでしているような忙しさに追われ、でもそれで、客足も途絶えることなく、新しい形態に関心を持ってくれる転向の客もいて、一年目は危うかったが、二年目で、借金の返済が苦ではなくなった。抱える責を減らし続ければそれは楽だが、篠田の場合、減らすわけにはいかない、自責の日常の持続が必要なのだった。
さすがに、バイトを頼んだ高校生から、休んでいただいていいですよと、労いの言葉をかけられて、はっとして鏡をみると、髪が他人のもののように白いものが増え、目元も落窪んでいるので、仕事のカレンダーの書き込みを眺めて、これではむしろ目立つなと言葉にしてしまって、それを耳にした高校生の達夫は、「えっ」とこれも声に出たのがわかった。
呑気さが仕草に自然と出るように工夫するには、どうしようかと、風呂の中、やはり役場の友人から薦められた女性と所帯を持つかなどと頭に湯をかけてから潜った翌日、亡き妻の親戚が住む街で震災があり、津波で義妹一家が流されたらしいと知って、使えない電話と携帯を何度も何度も年賀状にあった番号を押してから、何も考えずに車を走らせて10時間後、跡形もない街の前に立ち尽くしていた。
聡は、10歳になっていたが、篠田のことなど、両親からこれといって話を聞いたことがなかった。母親の亡くなった姉の夫だと説明されても、ぼんやり頭の中が濁ったまま虚ろな表情を変えなかった。
奥歯で頬の内側を噛み破った痛みに堪えるように血を飲み込み、それを繰り返す度に少量を嘔吐し、自分に言い聞かせるように、「だれもいない」と小さく反芻している。身体は怪我などないけれども、とにかく精神的なダメージをケアする意味で入院する必要がある。何が専門なのかわからない若い医師から説明を受け、とにかく引き受けて連れて行きますというと、これをそちらで医師に渡してください。落書きのような手書きの処方を受け取り、安否確認の家族名簿の横に、自分の名前の身元証明の書き込みをするがうまく文字が書けない。指先が震えているのがわかった。医師からもらった睡眠薬で車の中、聡は白い顔で気を失うように眠り続けた。篠田は賢明に考えようとするのだが、何も浮かばなかった。時折、車の助手席の聡の手を、起こさぬよう弱く握ってみたが、それはあまりに小さく冷たかった。