ようやくつま先がペダルにとどくほどの年齢の子の指先は、まだたどたどしい。幾度も途中で止まったけれども、隣で静かに見守る風な初枝は叱るでもなく、子供の肩に手を乗せ再び弾くことを促すようにゆっくりリズムを与える。少し出遅れるように少女は小さな顎をそのテンポに合わせて、左右の指先の位置を確かめるようにして、まだ拙い音の波の中へ入っていった。
「バイエルの102番は淳ちゃんが自分で選んだのよ。ね」
一緒にテーブルについて、坂本が持っていったプチスイーツを口に運ぶ少女は、聞けば小学4年ですと、さきほどのレッスンの時とは面持ちが変わって、はきはきと返事をする。口元に赤いラズベリーソースをつけたまま大きく微笑み、淳ちゃんは頷いた。初枝が弾いていくバイエルの曲を聴かせて、どれが弾きたいかを選ばせるのだという。勿論全てを弾くのは大変だから、初枝のほうもその時の気分や、レッスンを受ける子供たちの様子を観察して選んでいるという。ママゴトみたいなレッスンだがと内心を笑顔に変えて、双方が楽しいのが一番だね。坂本が返すと、初枝は、選んでからが大変よね〜と淳ちゃんに相づちを求めて笑った。
ココアをおかわりした淳ちゃんが小さなゲップを出したのを皆で笑うと玄関の呼び鈴が鳴り、透君がきたわと、初枝は淳ちゃんの肩に手を置き、片付けを促しながら立ち上がっていらっしゃいと声をかけ、中学生になったばかりのような透君を中に招いた。テーブルを振り返り、ラッキーねまだ残ってる。ここに座って坂本さんの差し入れを食べてからはじめましょ。とキッチンのほうへ透君のココアの用意するために歩いた。初枝の素足が床のフローリングにキュっと鳴った。
坂本が、今は亡き初枝の夫の森田を大学の先輩だったと知ったのは、事故の報道記事を新聞で読み、あっと声をだした時だった。東京の郊外の学部での学生時に、地味なサイクリング部で二度ほど奥多摩まで気楽なツーリングを楽しんだ二つ学年が上の目立たない人だったと記憶していた。それほど懇意にしていたわけではなかったが偶然にしろこんなに近い場所に居るのだから葬式には行くと決め、線香をあげそのまま帰った。一周忌の時、参列者名簿をみた初枝が坂本に葉書を送り、坂本は再び線香をあげに出向いた。その時に初枝のほうから、夫とはどういう知り合いでしたかと尋ねられ、覚えていることは全て話そうと、家族の前で、できるだけ克明に森田の様子を憶いだすように話していた。帰り際、初枝の家族から、他の客の世話をする本人から隠れるように、あの子をよろしく頼みますと頭を下げられて、一度はどういう意味ですかと言葉に出して尋ねたが、その時は、こちらに気づいて初枝が近づいたので、家族は黙ったまま再び頭だけを下げた。数日後、初枝の母親から坂本のところに電話があり、懇々と夫を亡くした初枝の気が振れた様子を話しつづけ、私どもより近くにいる友人が一番ですからと、いつの間にか、坂本が初枝の友人の筆頭に挙げられていた。坂本はあまり深く考えず、近くに住む友人として、ひとりでピアノ教室をはじめた初枝の暮らしの不足を、自分ができる範囲で手伝えればと考えて、電話があれば水道の凍結修理や、枝きりの手伝いに行き、そういった暮らしにどこか充足感が含まれることを感じていた。
初枝は坂本に若い頃の森田の事をあれこれ聞くわけではなかった。私と同じように夫のことを知っている人という坂本との距離には、幾分妬ましさも含まれていて、加えて、年齢も同じであることを知り、やがて互いに思うことを平気で言い合うようになった。坂本に、あなたはなぜ結婚しないのと尋ねると、坂本は、余計なお世話だと笑って返す。それが初枝にもどこか嬉しかった。
ピアノ教則シリーズ 2 バイエル ピアノ教則(2) (No.50~106)