シンク

2月 28th, 2010 シンク はコメントを受け付けていません

 枕にしていたクッションから頭がずれて床に頰を潰したようにしても痛みなど感じずに熟睡していた。テーブルの足の向こうに衣服がたたんで重ねてある。口もとまで包まったタオルケットのつま先あたりには窓から射込む朝の光がなにかをこぼしたように広がっていて、そこだけ温かかった。フローリングの目地に沿って身体は動かさず目玉を上にやると頭のすぐ脇に、飲み残したワインの入ったグラスと、小さな皿には白いチーズがあった。幼い頃飼っていたシロという犬を憶い出した。あの子もこうして目を覚ましていたのかしら。またシンクに寄り添うようにして寝ているわ。由子は呟いた自分の声が、自虐と逆の響きであることに満足した。
 母一人子一人のふたりだけの倹しい生活は、由子が勤めはじめても変わること無く続いて、母の誰かいい人はいないのという声も、由子が三十を過ぎてからむしろ切迫感が消え、週末にふたりで菓子を焼くことをママゴトのように楽しむようであったから、まさか唐突に母が買い物の帰りにトラックにはねられて昏睡状態となり、最期は由子を真っすぐにみつめることもなく逝った時には、ただ呆然と悲しむこともできなかった。
 ひっそりとした母娘の生活だったが、独りとなって尚一層静まり返り、日中のそれなりに慌ただしい勤めの内は、身体に染込んだその静けさを速度に変えるようにして、むしろ精悍さを増したと評価を得て過ごすことができたが、率先して受け取った残業を終えて自宅マンションに戻ると、自分の部屋のベッドでは眠ることができなかった。
 母親は、小さな部屋でベッドを使わずに、布団を敷き、片付けた床に洗濯物を広げ、あるいは裁縫をし、時には小さな座り机の上で、玄関に置く可愛いようなこしらえものなどをしていた。そうした一切を片付けることはできないと、帰れば母親の部屋に座り、押し入れの布団に顔を埋め、何度か布団を敷いて母親の匂いの残る枕を濡らして寝入ったけれども、四十九日が過ぎ、季節が満開の春となったころ花見の宴会の夜、帰宅してすぐに台所のシンクの下で寝ていた。
 忘れていたような細々とした母親の仕草のあれこれがくっきりと重なり続ける夢を、シンクの下では見ることができた。母の部屋では、母親の肉体の喘ぎのようなものが濃いので由子は突っ伏して嗚咽するしかなかったが、ここではふたりの動きが残っているのねと、固い床に重力で押さえつけられるように眠った身体の痛みも、何かその証のような気がするのだった。
 
 

Comments are closed.

What's this?

You are currently reading シンク at edamanoyami.

meta