「身の程を知った負けん気なら可愛いよ。俺は駄目だって笑ってくれるほうがよっぽど頼もしい。あの人は違った。些細なことで負けたくないし、謝りたくないのよ。俺は今まで誰にも謝ったことはないなんて偉そうにいうのよ。ぷってふきだしちゃった。あんまりにもダサくて」
女は、足下の濡れたバスタオルへ視線を投げ、素足で横に押しやった。玄関まで続く床は、大量の血液が中途半端に拭いてある。黒いようなタオルを足で拭き取りながら椅子に座ったところまでひきづったのだろう、爬虫類の歩行の痕跡のような生々しさで室内灯の反射を受けて、匂い立つようだった。
「あたしは頭が悪いけど、わかっているのよ。あいつにも何度も言ってやった。いでんしの問題だって。あんたは悪くないって。あいつはわかってもいないのに笑ったわ。笑顔は子供みたいで可愛いのよ」
煙草を要求され、一本をつまんだ指先は白くふくよかで美しかった。右の素足は血に染まり、腹から眉間迄縦に吹き出した返り血が残っていたが、それを拭い取った形跡はなかった。口元を尖らせて大きく吸い込んでから髪をかきあげ、横を向いて真っすぐに煙を吐き出した。シャンプーの良い香りがした。
「この街の男はみんなどうしようもない。勝気でない男がいたらみてみたいわ。どうして、膨れた腹をしたぶよぶよの身体で、逞しいやつに勝てると思っているのかしら。バカばっかり。スーパーの店員のこと。
でも、あたしにも風邪のウイルスみたいにそれが感染した。黙っていればいい気になりやがったから。女たちはみんな感染するみたい。そうでないと殺されるか、自殺するしか道がないのよ。この国はみんな感染してんじゃない?
あんた、あたしの言ってることわかってる?勝気な刑事がいたら、それはあたしやあいつと一緒で、いでんしの問題だけど、立場なんて消えんのよ。あんたまだ若いわね。勝気でしょ。気をつけたほうがいいわ」
同居している随分年上の男が朝早く工事現場の仕事に出かける際、女は、いってらっしゃいとパジャマ姿で玄関まで付き添って、男が座って靴ひもを縛っている背後から、下駄箱の上に飾ってあった、飯場の同僚から貰ったという大きな石の花瓶を両手で抱えて、脳天に投げ落とした。頭蓋は陥没し、即死だった。女は、股の中に上半身が折れたように曲がって突っ伏した男を玄関の狭いたたきへ足で押しやってから、床に溢れるように吹き出した血を、素足でバスタオルを引きづりながら拭き、そのまま台所の椅子に座り、自分で警察に電話をした。
「あたし、死刑になるかしら」
女は、口元を少し笑うように曲げてから、
「立てないのよ。冷蔵庫の天然水のペットボトルとってちょうだい」
と言いながら、はじめて頰の返り血を袖で拭き取った。
勝気
2月 23rd, 2010 勝気 はコメントを受け付けていません