佐世子は耳元にかかる髪をかきあげてから、細いフレームを白い指でつまむようにして眼鏡を外し、
「これが無いとあたりがぼうっとするのよ。みえないわけじゃないけど」
気のせいか瞳孔がやや広がった瞳で真直ぐにこちらをみつめた。なるほど焦点が自分の後頭部あたりに感じると坂本は思った。
「眼鏡をするでしょ。すると、よく見えるというより、見えることろがピックアップされて、それが極端で、むしろ疲れるわ」
「どのくらいなんだろう。そのぼうっとというレヴェル。街を歩くには不自由ではないでしょ?」
目を細め視界を狭窄させるような目つきで坂本は珈琲カップを丸いテーブルに置いた。
佐世子と以前会った時には眼鏡等していなかった。おそらくコンタクトレンズをしていたと坂本は考えてから、なぜ眼鏡にしたのだろと、
「前は眼鏡していなかったよね」
と重ねて尋ねた。
坂本と佐世子は大学の頃の同級生で、学生の時はそれほど近しい関係ではなかったが、卒業後、それぞれがデザインと雑誌編集という立場に就いたので、仕事の先々で出会う事があり、会えば軽口を交え声を掛け合うようになっていたが、ここ数年は、坂本の思いがけない転職により、出会う事がなくなっていた。お互いどちらかと云えば寡黙な人種に当てはまり、盛んに交遊を広げるタイプではなかったので、余程緊急の用事がない限り、わざわざ連絡をする気持を持ち合わせていなかった。
一度暖冬となって気温が上昇した次の日の、冷気が流れ込み極端に冷え込んだ二月の頭の午後に、坂本がケルトの図案資料を求め神保町の古書街を歩いていると、コートの襟を立てた佐世子が、古書店のウインドーを覗いている姿をみつけ、近くから久しぶりだねと声をかけた。
相変わらずデザイナーであるけれども、ネタが枯渇していると口元で笑う佐世子を、坂本は懐かしい気持で喫茶に誘った。
「高校生の頃からコンタクトよ。眼鏡にしたのは、いつでも気軽にぼうっとできるから」
佐世子は、再び口元だけ笑うようにして、肉親に話すような口ぶりであっさりと答えた。
「それより坂本君には驚いたわ。几帳面なエディターが物書きになるなんて」
最近の女性としては化粧気がないし、ダッフルコートの下の重ね着の一番上のセーターも着古した藁葺き色で肘あたりに毛玉がある。寸法が大きいので男物かもしれない。けれど身なりに頓着しない佐世子は、いつもどこか清潔な感じがすると坂本は思った。
近況を報告し合ってふたりともカップを飲み干してから、佐世子は窓の外の道行く人をなんとなく追いかけるように見たまま唇を閉じた。しばらく佐世子の横顔を見てから坂本も誘われるように窓の外へ視線を放った。西陽がビルをシルエットにして差し込み、ここでようやく店の中に小さく流れている曲が、シェーンベルクのピアノ協奏曲だとわかった。坂本は窓を眺めたまま、佐世子の住まいも、趣味も、何も知らないことが、なんとも不思議だと思った。
2009年2月22日 15:34