8月 22nd, 2009 脛 はコメントを受け付けていません

 山岡は帰宅できないまま二日ほど寝ずに仕事を続け、仕上げを部下に任せ、オフィスのパーティーションで仕切られた応接ブースにあるソファに倒れ熟睡していた。ソファから見上げた壁の時計は、午後4時すぎを示していたことだけ記憶していた。ソファの背と膝掛けの隅に顔を埋めるように寝ていると気づいてから、瞼を閉じたまま時計盤を思い出していた。振り向いて壁をみればどのくらい眠っていたかわかる。

 まただ。先ほどから何度か聞いている。枝を折るような脛の音が頭の後ろで小さく立ちあがった。女性社員が毛布でも掛けてくれるのだろうか。だが、オフィスの業務の音は一切しない。体重の移動で足首から膝迄走るような脛の音だけがクリアに響いて消えた。誰かが背後に立っているのかと、ようやく身体を解して目を開け上半身を捻って振り向き、まず壁の時計をみると4時前だった。どうやら午前らしく、オフィスの灯りは消されており、丁度時計盤に外からタクシーだろうかヘッドライトがゆっくり回るように届いて時間がみえた。
 窓の外から入り込む街の灯りで、薄暗い応接ブースには山岡の他には誰もいなかった。タオルケットが身体に掛けられており、目覚めと知覚と夢が混ざったかと思い返したが、夢の名残は無かった。立ち上がり応接ブースだけ電灯を点け、湯沸かしへ歩きながら、だがあの脛の音は妙にエロティックだったと、匿名の女の足だけを浮かべて火をつけ、珈琲を入れてソファに戻り、皆が出社する時刻迄もう一度眠ろうかと、珈琲を腹に流し入れてから横になった。
 机のカップから湯気が揺らいでいると眺めてから瞼を閉じ、大きく息を吐くと、再び目の前あたりの、カップと目頭の間あたりの近距離で、脛の音がピキと走った。はっとして目を開けると、視界の隅に白いストッキングの脹脛が、さっと消えるような残映をみたような気がした。再び目を閉じればまた音がする。それもいいものだなと山岡は緩く思って瞼を閉じた。

 急性の心筋梗塞で嘔吐したままの山岡を終業間際の社員がみつけ、救急車で運ばれていた。意識混濁の患者の周りで看護師が脛を鳴らしながら立ち回っていた。

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