「わたしはわざわざ身動きできない通勤電車に揺られて眉を顰めた表情をつくりながら、実は安心していたのだと思います。電車ばかりではございません。夏祭りや、バーゲンなども人が多ければ多い程、歓びの度合いは高かったのでございます」
晩春の昼過ぎ時、天麩羅蕎麦の脂が少々腹に凭れたような気がして、大きめなミネラルウォーターを持参し、一気に半分ほど飲んで赴任したての浅岡は、散り終わった桜の枝を見下ろしネクタイを緩めて椅子に座り、取調室で品の良さそうな婦人を前に、黙って話を聞いていた。部長からとにかくなんでもいいから話をさせろ。お前は聞くだけでいい。と指示されていた。
「肉親がひとりもおりません。両親はまだ幼い頃亡くなりました。ふた親とも50近くになってからわたしを産んで育てたので、19の時には短い患いの後、続けて亡くなりました。働き始めてから今までずっと独りでしたので、途中からわたしの体は人様に見えないのではないかと思うようになりました。幾度か薬を飲んで死のうかと思いましたが、遺伝でしょうか、丈夫なもので翌朝にはけろっとして起き上がるのでございます」
女は茶碗を両手にとり、ゆっくりと口をつけ音をたてずに茶を飲んだ。器を机に戻さず手の平に置いたまま、お名前はと尋ねたので、浅岡と答えてから、気まずさを打ち消すように即座に、それで。と話の続きを促した。
「ぎっしりと身体を寄せて揺れる電車の中で、痴漢行為をみつけました。立派な紳士でした。被害にあっている女性は顔を顰めて俯いていましたので、私はその紳士の手の甲を思い切りつねったのでございます。男性はびくっとしましたが、表情には出さずに手を隠しました。最初はそれだけでございます」
浅岡は、同じような光景を見て、自分は男の腕をねじり上げたと、自分の顛末が思わず口から漏れそうになり、慌てて堪え、ミネラルウォーターのキャップを開けた。