10年

12月 8th, 2010 10年 はコメントを受け付けていません

気づけば十年なにもなかったように時間は過ぎている。
同じ場所に寝起きして、日々の繰り返しが時を支えたという安堵もどこかにある。
仕事の仲間と酒を交わしたが、交わした人間は何かに追われるように職場を後にしていった。昨日声をかけられるまで、自身が古参兵だと考えたこともなかった。

遠山は、やめてくれませんかと柔らかいけれども、こちらに向かってこない、自分より若い上司の慇懃な声を憶いだし、洗濯機の中から捩れた衣服を取り出しながら、逆さまってのは嫌だなと声にだした。
小さなベランダに干してから、二度ほど誘われた競馬に、今日は行ってみようかと支度をしたが、足元に散らばって重なった雑誌や新聞に躓いて、小さな部屋を片付けはじめた。
日々片付けて、男の独り住まいが熊の巣のようにならぬよう、若ければそれでもよいが、気をつけてはいる。それでも息を吸う肉の塊が動けば部屋は、いくら片付けても淀むものだ。今更潔癖へ挑んでも、いずれその性分に耐えられないことがわかる。ベッドの下には掃除機を入れたが、重ね直した雑誌は足で少し蹴って乱した。
インスタント珈琲を片手に昼飯はどうしようかと、再びベランダへ出て、高いところを走るような雲を見上げた。ベランダの手すりの塗料が剥げていて、指先で簡単に捲り取れた。
通りの向こうの棟の、同じ位の高さの窓から、女がひとつふたつ外へ放り出した。夫婦喧嘩でもしたか。木霊してもいい争いの音は聴こえない。腕時計は正午まであと十五分を示していた。

窓から女の姿が消えた時、ひいという妙な声が下の通りから真直ぐ細く立ち上がるように聴こえた。立ち尽くした初老の女性が買い物かごを地面に落として顔に手をあてている。
そのうちにぺたんと座り込んだ。音がしなかった。
遠山ははっとして、部屋を飛び出し、エレベーターを使わずに階段を駆け下り、へたり込んでいる女性へ走った。
女性の前の花壇の縁石に、女が投げ落とした赤ん坊が糸の切れた操り人形のような嫌な形であった。

遠山が赤ん坊の胸に手を置くと既に吐息は切れていた。背骨が折れているかもしれない。蘇生措置などすれば悪い方に傾く。まさぐったポケットに携帯はなかったので、顔を覆って唸っている女性に携帯はもっているかと怒鳴ると首を振るので、角の公衆電話まで走り警察と救急車を呼んだのだった。自転車に乗った警邏官が最初にひとりできたが、様子を知ると慌てて所轄に追加連絡をし、数分でパトカー二台と救急車が到着した。徐々に集まりはじめた人間の中に遠山は屈んで、まだ黒い目元を両手で覆っている女性の背をなでながら、私服の刑事の質問に答える前に、赤ん坊を運ぶ救急隊員にその子は大丈夫ですかと声をかけたが、わからないという返事がかえった。
遠山があそこですと指を差すと、窓辺からやや下がったあたりに女が立ち、白い顔でこちらを見下ろしていた。部屋に駆け上がった刑事の促しに、女は静かに従い車に乗っていった。すでに赤ん坊は救急車で運ばれた後だった。女は赤いサンダルを履いていた。

遠山は、赤ん坊を投げ捨てた咲子とこうして出会った。

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