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水簸拵

水簸拵

 素材に思念を絡めて探りつつ、認識以外の体感以外の史的存在の文脈の道行きを、こうすればこうなると確認して、現在の自らをズラさぬようそれでも眺める時間は注いだ。未だ手が離れたわけではないけれども、現在と云う自身を中心に再び構えると言わば「散文的」エッセイを遺しているのだと独り言ちた。  逆様を無理強いしている。水簸という物理道理はオイルにはなかなか馴染まないので、水彩がよいのかもしれない。肉厚の上等 […]
良象過

良象過

 まだやりかけのことは幾つもある休日とは云えない日だが、気象がよろしいせいもあり、草刈りなど混ぜて過ごす時間が実に瑞々しく感じる。ほぼ一ヶ月に渡って大工のまねごとに精をだした。多くの方の協力をいただき非常に助かった。軀を動かせば動かすほどに頭の中も刷新され、よいことばかりとはいわないけれども、足が地に着く実感が増した。同時に眺めのパースペクティブで利己的なことと利他的互恵的なことの差異が明瞭になり […]
式宴幸

式宴幸

従兄弟の明彦の結婚式披露宴が無事終わり遠方より集った方々と酒を交わす。
大月隠

大月隠

配達で起こされてから風呂に入って届いたものを湯槽の中で捲る。咳の中幾度か繰り返したことを明晰なものにしたいのでノートを広げて線を引いてから、辞書をひらく。温まった軀と多分睡眠の不足で昼下がりの気怠い眠気が額から瞼、顎へ滴ってカウチに横になる。少しは眠ったのか。徐々に部屋に残っている冷気で落ちた眠気も凍ってしまい窓の外を眺めていることに気づく。
式魂潔

式魂潔

Сталкер (1979) / Тарковский (1932-1986) を観てから、Teorema (1968) / Pasolini (1922-1975) を続けて観ると、半世紀過ぎた映像の示す交錯が、構造と純潔との、思いがけない事故に塗れた交差点のようなものとなって朝浮んで広がる。
仕事男

仕事男

人里離れた標高千二百メートルの大雨で崩壊した路肩工事を行う男たちと挨拶を交わした駐車場から40分ほどの車両侵入禁止の道を歩きブナの原生の森へ入った。

after word (anticoncept)

成り行きで、人の住まぬ家の様子を話したせいか、それまでは光景の一部だった障子の破れ具合や家の持つ内側の時間が、気の触れたモノの物語やら、呪縛の顛末やらを気ままに引き寄せ、根拠の無い風呂敷を要らぬ妄想で膨らませて話を囲んだ正月家族で結ぶことになった。おかげで、あの家の前を歩くたびに背中に風呂敷がほどけて崩れたようになって難儀する。言葉のせいだ。話さねばよかったが、話さないぞと戒めるほどの何かが、見つ […]

WordPress

JinとmasazのサイトをWordPressで制御すると、とてもレスポンスが良いので、これに乗じて、重い腰をあげ、こちらの分散しているMTモジュールデータを、WordPress3.0.3モジュールへ乗せ代えることにした。これで脆弱cgiから解放された。サーバー運用も考え直す時期なり。 これまで手前のシステムを弄る時間などなかった。レイアウト・デザインレスのMTを諦めたような気分で使いつつ、PHP […]

JOZEF SUDEK

JOZEF SUDEK (17 March 1896, Kolín, Bohemia – 15 September 1976) Charles Sawyer odyssey to Sudek by Charles Sawyer The Window of My Studio Ancient Forest of the Beskids 1995年前後、絵を教えていた生徒にJOZEF SU […]

carver

Jiro SUGAWARA (1941~) 2010 / Osaka Art Univ. 好んでものをつくる人間を撮影するのは、おそらくそうでない人間と比較して、その佇まいに人間の時間が顕著に健やかに率直に表出化しているからであり、そうでないと、彼は何か秘匿し現在を取り繕う罪の装飾を気取るしかないからで、そうなると、ものを実直につくる人間ではないということになる。そのみつめはまるで長大な物語を受け […]

painter

土曜日に仕事仲間の飯島女史より是非行きなさいと電話で促され、これも最終日となった、川合朋郎展に、ゲンタ、吉村と銀座四丁目で待ち合わせて出かける。作家は不在だったが、こちらとしてはほぼ一年ぶりの新作のその変異を楽しませていただく。 まだ年齢的には若い作家は老成の詩人が絵描きの背骨を貫いているので、そのイコンがアレゴリーの性格を纏っても、筆の自制や素材の検閲などの所作が、いわば詩的な抑制として(あるい […]

refinement of exquisite time

洗練という言葉はあてはまらないが、最終日に娘たちを連れて訪れることができた、さかぎしよしおう展の、作品自体はもちろん、清廉潔白に照応させた展示空間にも驚かされた。 固有で唯物的な構想とその実現に、長々と横たわる時間を共有する見る側は、みつめつづけることに、限界点を持たない。持てない。言葉で指し示すことをその身なりはあっさりと打ち払う清々しさがある。日々沢庵を漬ける修行僧のようでもあるその手法は、単 […]