成り行きで、人の住まぬ家の様子を話したせいか、それまでは光景の一部だった障子の破れ具合や家の持つ内側の時間が、気の触れたモノの物語やら、呪縛の顛末やらを気ままに引き寄せ、根拠の無い風呂敷を要らぬ妄想で膨らませて話を囲んだ正月家族で結ぶことになった。おかげで、あの家の前を歩くたびに背中に風呂敷がほどけて崩れたようになって難儀する。言葉のせいだ。話さねばよかったが、話さないぞと戒めるほどの何かが、見つめの時点で宿ったわけではなかったから(むしろ言葉を喪失する歩行であるから)、時節の集いでの成り行きの説明描写という言葉が、普段の言葉の失せた徘徊との斥力か何かが働いて徐々に熱を帯び、言葉を囲む輪もそのひとつひとつを両手で暖めるような格好をして、単に無人という光景が、得体の知れない芯を持ったことになる。所謂伝承にはこうした性格がある。捏造というより関心の集中が、別を軸の周囲に重ねるように産む。

計画(意思)というものは、観念的でなければ明快な形(行為・実現)があらわれない。言葉を積み上げることでもあり、鉛筆で線を引くことでもある。経験は観念の短絡を避けるために、組み上げたものを解体し、引いた線を消しゴムで消す。まっさらなはじまりに戻ることはないから、あれこれ試みた汚れの中で計画は計画らしくなるものだが、この取り組みには、前述の無人の家のような「言葉の後」という効果に似た関心の集中による引きづりはある。前方に進んでしまえばやや右に傾こうとも前に進むわけで、後ろへ走る勇気はなかなか芽生えない。はじまりを白くすることも無邪気すぎる。これも培われた判断がそうするけれども、かといってこの引きづりに従うことはない。

観念で組み立てた伽藍に収まる見通しほど脆弱なものはない。そしてつまらない。つまり完結が、崩れの中に横たわることを予感しながら、出来事の計画(意思)は進むしかないのであって、この時「計画」は、計画ではなく、別のものへ肥大し、あるいは変異し、むしろ反計画という逆転(自己否定・反意思)の批判的な正当性を織り込んで、内向せずに外向するしかない。この計画の波乱(パラドクス)をコントロールせずに、流れの広がりをみつめる。それが正義ではないか。

水平面に転がる様々を、見つめる自由がこちらにあると考えるのは間違っている。見つめるという意味は、見えた側の勝手な解釈でよろしいという目玉の認識論的(観念)効果ではなくて、目の前を容赦なく切り裂くだけのこと。そこに踏みとどまれば、日々の言葉の失せた切り裂きの体感の現実感だけが手がかりであり、踏みとどまる集中次第で充分深くも浅くも差異を検討できるが、言葉が省かれた切り裂きの鮮明さは、固有な自由というよりも、夥しい言葉を引き寄せる、ひとつの「罪」とやはり考える。

挨拶と見舞いに連れ回し、従姉妹らとカラオケで楽しむなど一週間ほど帰省滞在していた姦しい娘たちが東京へ戻り、年末年始は音(midi)の併置設計訓練(tracktion)で過ごしたから、ようやくロケをと気象を調べると寒波到来で、朝方はマイナス7度まで下がった。とにかく切り裂きロケ敢行。