伯母の家に新年の挨拶にと娘たちを連れて伺い、お久しぶりです。亡き伯父の霊前に手を合わせた。
10年前には、近所に住んでいたから、学校帰りの娘が伯母の家に立ち寄ることもあり、近くだから妻がこしらえた料理を持っていったこともあったが、こちらが引っ越してから一方的に無沙汰となり、伯母は数年で私の父親の長兄にあたる夫に先立たれた。老齢の伯母の面倒は、伯母方の親戚の方や、まだお元気なお兄様は勿論、ケアしてくれる人も週に二度は来てくれる。時々両親が病院に行くときなどお世話をしているけれども、孫よりも遠いこちらの唐突な訪問をあれあれと喜んでくれた分、私はとても申し訳ない気分になった。

足首を持って逆さに吊るされた仮死の赤ん坊が背中を叩かれてはじめて生を得た時、父親は名前など考えていなかった。伯父が私の名付けの親であり、父親と15も歳の離れた父親代わりのような位置にいて、その歳の差は、戦争を挟むことで微妙な感触となって縁者すべてへと変容伝搬した。伯父伯母には子供がいない。戦中外地での病気による身体的な欠損によって子供が出来ないという理由で実家の跡継ぎを断った。父親の姉である伯父の妹が婿を貰い、家土地の仕事を外の人間に任せ、野に出た。所謂核家族の走りといっていい。戦前の幼少の頃は、人力で上等な着物を羽織って通ったほどの坊ちゃん育ちが歳を経ても根は残り、つまり畑になど立ったことの無い、立つつもりの無い意気地が、戦後の成り行きと同調して、家督を放棄し、離散構造の先陣をきったという形となる。もっとも、あまり人には話さなかった長い戦地暮らしの恩賞を、父親の祖父が湯水のように国へと投じたことで、父子の仲違いもあり、その反抗も底辺にはあったようだ。
幾度か養子を考えたこともあったというけれども、結局は縁がなかった。その分、自由な意思で貫かれた人生ではあったから、連れ添いの伯母も良き人生と思っている。けれどもひとりになって寂しさが仕草に露になった。
これは良いものよ。と伯母は伯父の使っていた手巻きのセイコーのスピリット(魂という名前の腕時計)をこちらに渡すのだった。伯父のことを考えることで、いずれ絶える家の系や、皆が口にしない、したくないような、ある特有な過去の一時期の迷走の時空への探索・関心の持続を、空の上からやめないでくれと訴える徴なのではないか。いやそういう納得が自然に降ってきて、空いていた器に溜まり落ちついた。遺品として腕にまかせていただきますと貰ったのだった。伯母は丁寧に手入れをしていた。きれいに磨かれて時刻を正確に刻んでいる。

伯母は吸入器のケーブルをつけたまま玄関から真直ぐの路地の曲がり角で姿が消えるまで、娘たちにいつまでも手を振っていた。戻って父親に顛末を話し、頂いた腕時計をみせると、ああそれをしていた。と呟いた。しばらく自分の腕につけていたけれども、ベルトのサイズがこちらの腕には少々窮屈で、どこかで長めのものに替えようかとも考えたが、ちょっとつけてみてと父親に渡すと、ぴったりなので、親父が死んだら頂くからそれまでつけていなよと、伯父の声に似た言葉が私の口から流れ落ちた。これはいいなと、口にした言葉とは別のことを考えている風な父親を眺め、ああこの人は伯父の葬式ではじめて人前でふきだすように泣いたと憶いだしたが、わたしは黙っていた。