予想していたことだが、モジュールを変え受け皿を解放した途端、大量のspam攻撃がはじまった。
ひとつのしがないアドレス宛てに、日に1000以上のspamを送る気概のようなものも感じるが、その愛の放出には、なんてまあ暇なんだろうという一笑の内では済まぬこちらの処理というものがある。
もっと、破壊対象をじっくり考えてほしいものだが、その内容が、一見擁護のそぶりであるのが「愛の悪意」に磨きをかけている。(おそらく十代か、若者のアルバイトだろう。大人であれば哀しさが大きくなる)
ネット初期と違い、SPAM=悪意の構図ではなくて、今では功利的な戦略でのことだろうだが、事後主義的なこの国の対処対応の歴史の上での、横暴への態度表明というもの、国境のなかった国の甘い防御というものが今更に、懐に浮かび上がる。
とはいっても、こちらは都度真剣に対応する気持ちはないので(一挙に削除処理はできるので)、コミュニケーションの、自らの側の開き方というあり方(システム的な姿勢)が、今後、人間の態度も含めて大いに検討されるべきと考える程度だが、このグローバルコンセンサスでもある「愛の行方」の対処には、現況の国々や人々の倫理という問題へ構造を一度通過させる時はくる。
好きな女にラブレターを送る気後れのような、恥知らずのような気持ちは消えたか知らないが、見える場所に見えるものを置けばよいというプロパガンダは、夜な夜なコマーシャルばかりのメディア放映となってエスカレートしているという営み(資本主義)の構図と考えるより、原理的に、人間は見えてから判断するという後追いの生に依存してきたからにすぎない。もっとも、現代生活は、古代の「予知」「予感」に支えられた「不安」「恐怖」にまみれた生の構築の必要が無いという、勘違いになかなか気づかないようにできている。
外側から顛末の真相を聞くと、実は悪意の痕跡に悪意が引き寄せられていると符合することも少ないない。思わず笑ってしまうこともある。渦中の当人は悪意などとは考えていない。否、かかあが小さい子供を抱えて大変なんですよう。と血に塗れた指先を隠そうともしない、丸い瞳で訴えるように小さく呟く犯罪者が日増しに増えているから、現れの差異に判断が届かない。
と、年も終わる日を前に、酒を呑んだ。「年越し」という雛形を数万、数千、数億の家族が辿る。余計な世話とは弁えつつ、雛形でない固有の、時に少々照れくさいような誇るべき過ごしが、私を含めてそれぞれにあることを。