Сталкер (1979) / Тарковский (1932-1986) を観てから、Teorema (1968) / Pasolini (1922-1975) を続けて観ると、半世紀過ぎた映像の示す交錯が、構造と純潔との、思いがけない事故に塗れた交差点のようなものとなって朝浮んで広がる。

陰惨ともいえるし高潔とも感じる。異系の交錯の齎す朝の形は、作品の制作当事者の制作意図などに一切関与しない。もしかすると彼らの事後の実現後にささやかにふと脳裏に流れた予感の中に含まれているものに近いかもしれない。Сталкер であれば子供であり、あるいは犬であり、ワイフの言葉。Teorema ならば病の少女、あるいは奇跡の女中となる。いずれも物語の外縁に位置するひとつの映像、静止画像に限りなく近い視覚が、物語から外側へ逸脱していく運動のようなものになって、10年ズレた作品が朝に併置されたことによりファーイーストの愚鈍な知覚を混じり合わせ、動く絵という夢のような記憶のような経験のような混濁したイメージが、この物語外縁性の事故よって新しく生成された。

窓の外が徐々に明るくなるにつれ、そうかこちらの感じる形も「詩」のようなひとつの異系の凝結となり、魂を貫くように手元の現実への指針となる。河原で掴んだ手のひらの摩耗した小石のようなものだ。
つまり私に戻れば、いかに感じるのかという手法。感じ続けてその検証に精神を投入する時間を手に入れるということ。この手法はやはり以前より幾度も想起した刑事たちのコールドケース捜査にあまりに酷似している。