洗練という言葉はあてはまらないが、最終日に娘たちを連れて訪れることができた、さかぎしよしおう展の、作品自体はもちろん、清廉潔白に照応させた展示空間にも驚かされた。
固有で唯物的な構想とその実現に、長々と横たわる時間を共有する見る側は、みつめつづけることに、限界点を持たない。持てない。言葉で指し示すことをその身なりはあっさりと打ち払う清々しさがある。日々沢庵を漬ける修行僧のようでもあるその手法は、単にこの国の所作の文脈先端にシニックに位置しているわけではなく、時代の風が入り込んだ現代的な機知が、解けないギミックのように鏤められている。手のひらに歴史を呼び込んで乗せるような感覚か。
想像力を刺激する仕組みはとかく、恣意的に偏るものだが、原理的なメソドが、制作過程を隠さず、その成立をむしろメソドの告白(精緻であるが故に模倣はできない)によって見事に帰結(産まれた子を抱くように)。余計を挟まずに態度淘汰することで、メソド自体の原理の欲望(この子の唇にあった吸い口のかたちを探すように)に従って、向こう側、もうひとつ別の果て(新家族)へと、動かしていなかった脳細胞を使うよう促される。アンチテキストの形態が、厖大な想像力を呼び込むというのは、作品の醍醐味でもあり、そのクオリティーを自らが証すわけだ。
こういう大人の仕事に出会えることは、最近少なくなった。巷は青臭い大人気取りの、やれガバナンス、それコンプライアンスと叫ぶ幼稚な群れが溢れているので、こうした超個人主義の作品の時空は、きりりとして、且つ翻って宛ら広大な荒野を広げ新しい探索開拓民を、ほら自由にどうぞと誘うので、頗る気持ちがよい。
展示会場の作品はほとんど売約済みだったが、長女が、作品が欲しいと言ったので、あら、なかなかセンスがある。ほらよと買ってあげる立場ではないし、そういうものではない。作品の所有は個人的に煮詰めるべきだろう。いつか自分で稼いだ金で、是非自分の横に置いて生活してほしい。という私も、2年くらいがんばって、さかぎし作品購入積み立て貯金をはじめようかな。と。
お茶の水の下倉楽器にてハルボウの自宅練習用にトロンボーンミュートを購入。これまで使っていたシルキーのマウスピースが、KING 2Bにしっぽりとなじまないようなので、これも他を口にして探したが、純正のものでよさそうなので、新規購入は見送る。さかぎし氏のお子さんもクラリネットをやっているとのこと。なんだか子が音楽に親しむというのはよいよね。クラリネットを聴きながら、ぽたり。ぽたり。と背を丸めた作家が浮かんだ。
しぶや沖縄、海鮮庄や、と、展示会場で待ち合わせをした、丑山、ゲンタに、吉村、ガリオが加わって、少々早い忘年会となり、久しぶりにしたたか呑んだ。ハルボウがしぶや沖縄のうみぶどうはまずかったと一言。