土曜日に仕事仲間の飯島女史より是非行きなさいと電話で促され、これも最終日となった、川合朋郎展に、ゲンタ、吉村と銀座四丁目で待ち合わせて出かける。作家は不在だったが、こちらとしてはほぼ一年ぶりの新作のその変異を楽しませていただく。
まだ年齢的には若い作家は老成の詩人が絵描きの背骨を貫いているので、そのイコンがアレゴリーの性格を纏っても、筆の自制や素材の検閲などの所作が、いわば詩的な抑制として(あるいは解放系として)、自らの鍛錬と行為終了が行われているので、技芸云々ということよりも試みの態度表明が、詩的である。若い頃の渋沢龍彦が浮かんだ。
恣意の介入が無駄である、「気象」という世界観を導入した新作は、日頃、こちらと同じように、写真撮影によって、日常を記録していることの気づきがもたらしたのかどうかわからない。リヒターを彷彿させたけれども、リヒターと異なっているのは、クリストフ・シャルルの無関係な併置と似た、融合ではなくて、描くことと、作為によって変えることはできない世界それ自体を、ただ単に並べるという弁えが示されている。
銀座では老舗であるのだろうニッチギャラリーは、窓際に商談用の応接と画集の類いが並べられ、ビジネスライクな画廊であったが、照明などもをもっと考慮した作家の作品だけを並べる空間にしていただきたいとこちらは勝手に愚痴たけれども、同展の作品はほとんどが売約済みであり、これは勿論作品の質の結果であると同時に、この老舗の販売力があの窓際でもあるのだろう。