時任物譚
家外の石油タンクがすっかり雪に埋もれてしまったので、絶えず生き急いでいる母親が招集した家族会議の帰り、車のガソリン補給、塩カル鉄粉落とし洗車の際に灯油を購入し、折角綺麗になった車を汚して山に戻り、零下の仕事部屋から逃れリビングで広げ続けた制作のひとまずの片付けをしつつ、二十日に渡った制作の流れをよそ者の目で眺めてみる。
多契隣窓
「多様契約と窓」の制作をはじめる。 一寸先がみえないという創作の醍醐味を抱きよせて、静止画像の前に併置するつもりのオブジェクトの試作は、ここ数ヶ月の大股の歩みを近視眼的に検証するような手付きとなった。マケットやらジオラマのようでもあり、彫刻性と絵画性と建築性を呼び込むような自在な戯れを許して、静止画像(窓)を更に切り詰めて選ぶことになる。 採集物への注視をそのまま形にする極めて単純明快なスケ […]
外与枝形
二年前に得た環境からの率直として欅の幹薪を短冊に仕立てる素材の解釈をはじめていた。朽ちた流木や落枝の並列と併行して、しなやかな細枝を家の入口に集め置き、剪定など与えてから、やや太い幹の断ち切った幹枝を併置する方法を考えて、生活の場所から離れ空間を意識することをおこなった。すると三十年前の手付きやビジョンに戻ったような心地である種の反復を再び繰り返していた。枝の形というものの、自明な自然(じねん) […]
枝切為石鹸
石鹸(桐原由江制作)の為の枝切置 桐原由江の、グレーテルが森で籠に拾い集めたものをヘンゼルがそれは喰えないよと窘めるかの、ハンドメイドソープを使わせていただき、目から鱗を落とした。5千年前シュメールのソープの丘で羊の脂が灰に落ちた偶然から生まれた石鹸は、現在では日常的なツールであるにも関わらず、香るだけの悪しき生産物が主流となっている。 身の汚れを落とすという仕草を手に入れた時、人は明日を生き […]
枝切置
再びまた凝りもせずに自然に散乱している奔放な樹木の破片を場所につなぎ止め(=仮設する)たいとした、この季節の底辺には、「耳なし芳一」から「安寿と厨子王」へ辿ってみつめ続け変位した自らの生存環境の思索という流れがあり、同時に、この系へ注ぐようだった稚拙な言語化の反復で気づいた「身の丈」という表出のレヴェルを、実直なみえるかたちで探索する静止画像の撮影がこれを支えるようだった。 俯瞰した構造を再現 […]
他者照射考
思わず、靉光(石村日郎 1907~1946)「目のある風景(1938 / 東京国立近代美術館)」を浮かべてから、石村の絵にある目は、時代的にみても自己投影あるいは自画像的な内向から離れていないと府に落として、川合朋郎の新作は、明らかに宇宙(そら)の、絶対的他者を示していると個人的には感じていた。 つまり、人間的相対的な類型の「瞳」の誘惑ではなく、善も悪も言語も仕組みも届かない、霊的なものであるかも […]
七光闇切態
厨子王の「復讐」が薄められた鴎外の意訳から説教節に戻り、やはりまた構造のダブルバインドとなった徹底という出来事の描写(認識)が、関わりの頓着となってこちらには浮かび上がり、厨子王の日々を手元に集めるような念となり、憑依とは異なり何処か透谷に似てくる。 山庵雑記 (1893)・三日幻境 (1892) / 北村透谷 (1868~1894)
剪定枝窓
当初思い描いていたものを見直したのは冬に展開するインスタレーションから演繹するような時間的配置で制作詳細は決定すべしと判断したからだが、同時により一層余計を省き恥を抱き込んでもよいから身体の清潔をせいぜい示す程度の意味合いを加えたいという想いが増した。古井からポール・ド・マン(理論への抵抗)へ読み移るこちらの流れもあった。季節もある。無論年齢的なこともある。 時節柄ここ数年に渡る試論めいたさま […]
水指行方
昨年修復したテラスは一冬の圧雪を乗り越えたが板が二枚反り返っているのがみえる。樹々の枝の先端に生命の力が色彩で示され、それに促されるようにこちらのカラダの軸から胎動するなにものかがある。みえることみることがこうした季節の移り変わりの時節に翻るような効果を齎し外の世界を眺めているその実感をともなって自己に率直に向くことを悦ばしく感じながら、せいぜいこの「率直」だけが頼りの足取りを誇ろうかなと。