思わず、靉光(石村日郎 1907~1946)「目のある風景(1938 / 東京国立近代美術館)」を浮かべてから、石村の絵にある目は、時代的にみても自己投影あるいは自画像的な内向から離れていないと府に落として、川合朋郎の新作は、明らかに宇宙(そら)の、絶対的他者を示していると個人的には感じていた。
つまり、人間的相対的な類型の「瞳」の誘惑ではなく、善も悪も言語も仕組みも届かない、霊的なものであるかもしれないような、彼方の意志からの、こちらへの照射という構造は、SFなどで転がされた様々な物語を同時に浮かばせる。画家を交えた酒の席でアバター(映画)などを口に出していた。
同時に、ミケランジェロ(1475~1564)、ラファエロ (1483~1520)の、神性イコンの明晰を脇に降らせてから、フェルメール (1632~1675)出現へのの時間的進捗の系ではない、人類の外部性というテーマの普遍へ繋いだ画家の投射だと頭の中で、私は結んでいた。