120314 from baeikakkei / T.M on Vimeo.
現場や証拠の写真を壁に張り巡らせて、容疑者や彼の動機を組み立てる捜査官を映画や書物の内で眺めていると、撮影した静止画像を幾つも置いてみつめる自身の目つきが、物語の探索者とほとんど似ていることに気づく。
捜査官の視線の行方は、画像には見えない「秘匿性」に向けられ、床に転がったハンカチーフの片隅の小さな模様から導かれた生産工場のアルバイトの工員の指紋と繋がり、あるいはまた、犯行現場に屯する群衆の中から不自然な人影を探す。
私の静止画像は、犯行現場の証拠写真でもなければ、特定の場所や時間を証左する類いではないから、捜査官たちの「証拠」とは異なっているが、現実空間の陰影をそのまま切り取ってある静止画像という点で、「行方」は、撮影した動機(行為)と同一のレヴェルで、明らかにされたまま、その現実は何かという問いとして、示されている。
故に、私は、捜査官に似た目つきで、これは何か?という「問い」そのものを、静止画像の行方として、みつめつづけるから、この問いに、簡単な答えがあるようでは困るわけだ。
静止画像が時間(存在)に対するアンチテーゼと捉えた上で、この非存在は何かという問いへの注視、あるいはその促しの、静止という時間の切断面には、認識を拒否する自然の倫理(人間の欠如した世界)が横たわっており、時間の推移そのものによる人間的経験という知覚にとって、この冷徹で残酷な倫理の知覚への併置は、むしろ人間にとっての彼方を真摯に外側に映し出す装置となると思われる。
イコン(イマージュ)的絵画の示すことは、どう足掻いても、人間の四肢の届く自己代謝であり、樹木の日々の揺れと擦れが絵画的な描写を生け垣に残す場合、これは自然の倫理の側に在り、解釈を拒絶する時間のみ悠々と流れる。拒絶の有り様を小賢しく抱き寄せる傲慢な認識は、つまり甘い比喩を与えることしかできない。
冷徹な倫理(自然)は、人間的であることを除外した世界を示すだけであり、だからこそ人間は注視をそこへ向けて持続できるといえる。
ー text as murmur for “This is not related to your life” 2015