当初思い描いていたものを見直したのは冬に展開するインスタレーションから演繹するような時間的配置で制作詳細は決定すべしと判断したからだが、同時により一層余計を省き恥を抱き込んでもよいから身体の清潔をせいぜい示す程度の意味合いを加えたいという想いが増した。古井からポール・ド・マン(理論への抵抗)へ読み移るこちらの流れもあった。季節もある。無論年齢的なこともある。
時節柄ここ数年に渡る試論めいたさまざまな展開の「節」を結ぶ仕事もあり、これは倫理的責任と感じるものであり、出来得ることの限界を示すだけでは物足りないと考えていたことも、要因と捉えた。
硬直する帰結を堅牢に構築するタイプではないようだから、なけなしの「しなやかさ」に頼ろうというわけだ。これは自分と照応する対象と付き合うだけのこととなる。しかしまあ、剪定の意気地がまだ足りない。