070814-602

 以前レンズは人間が考案したのだから人間的になるだろう。否なるだろうかといらぬ考えを迷わせたことが幾度かある。レンズは反人間的に光を屈折させて像を結ぶから、その結果は外世界の有り様に含まれるものにすぎないからだ。スピノザがレンズを研いた時彼も同じようなことを考えたにちがいない。人間の視覚や記憶がレンズ的であると考えたのは、残像を得た結果であって、それまで人間的な視覚と記憶はレンズに縛られたものではなかった。つまり「多様な見え方」が存在した筈だ。

 近視の人間は視力に対しておそらく聴覚や味覚よりもやや退いた関心となるだろうし、ものを見ることよりも別の知覚からより多くの情報を得る。つまり「見える」ということが、共有の能力であるとするには無理があるわけだ。「見る」「みつめる」ということはひどく固有なレヴェルで個体に位置づけられているのであって、あなたもわたしも見えるからよいということではない。見えているものなどまるで異なっていると考えたほうがいい。まして見えることに関心をもっている人間がどれほどいるというのか。
 人間的ということに戻れば、能動的な人間の活動いちいちが「見えている」ことと同様の差異を含み持ち、関心のボリュームも個体差による。だがしかしおそらく知覚こそが人間的な生物的機能なのであって、同質等価でないとしても、それを頼りに個体を保守し触手を伸ばす。我々のジレンマとは「私」と「我々」という剥離の仕方を知らず、このふたつの幻想の喩えようもなく離れているという事実にある。社会というコミュニティー、共生体を構築する歴史を俯瞰すれば、このジレンマを麻痺させる「法」を「我々」という幻想で信仰してきたにすぎないことがよくわかる。
 さてでもしかし、反人間的なレンズのもたらすある種暴力的な停止の光の光景に人間は魅了される。それは脳に静止画像をセーブできないからであり、また、それ以上に光景自体が、あまりにノスタルジックな光によってカラダの成熟や衰えと共に、都度思いがけない色彩や出来事を伴って変容しカラダの時間に刻み込まれるからだろう。そして光を求めるバイアスアイはそれをただみつめる。みつめつづける。

 レンズに囚われた人間の姿は、その人間であるという限りにおいて、光景となる。