贈り物を頂くことに慣れるというのはないだろうし個人的には奇妙な感触があるが、とにかくあまり頻繁に身に訪れる出来事ではないので、その唐突に躊躇と歓びが混ざったまま放心に結ばれるような状態が据え置きになる。
土産というものは勿論有り難い。けれどもまっすぐに自分に向かったベクトルで胸の前に差し出されると、言葉を失う。
ほんとうにありがとう。としか云えない。
日々藝術には例えば「笑い」であるとか「ユーモア」が、もっとふんだんに充ちているべきではないかと考えることがあり、その延長上に、「贈与」シリアスプレゼントというような、魂の触手の動きが付与されるべきと加えて思うのだった。
また例えば、愛する人間に宝石や高価なものを贈る時には、その意味として、その価値を愛情として代替えて示すことをしてきたわけで、受けとる側も、その価値を愛情と翻訳して抱きしめることは、別に悪いことではない。
経済的交換の「贈与」には、慎重な文脈があり、隷属や植民的傲慢に結ばれる場合もある。
蓋し、固有に向かって贈る人間のココロのベクトルには、代償を求めるより以前の、贈りたいという気持ちがまずあって、それが嬉しいだけで十分だ。
もっとわたしたちは贈り物をする機会を増やすといい。