昨年修復したテラスは一冬の圧雪を乗り越えたが板が二枚反り返っているのがみえる。樹々の枝の先端に生命の力が色彩で示され、それに促されるようにこちらのカラダの軸から胎動するなにものかがある。みえることみることがこうした季節の移り変わりの時節に翻るような効果を齎し外の世界を眺めているその実感をともなって自己に率直に向くことを悦ばしく感じながら、せいぜいこの「率直」だけが頼りの足取りを誇ろうかなと。
寒風と積雪で倒れて折れた枝を拾い集め、盆栽のようなものをこしらえる計画を練りつつ、併し紆余曲折の経緯が併行し、筆を垂らして水彩をしていた。熱中と集中がそこに運ばれるわけではないけれども、自身の坦懐が無意識に表出される出来事のようなものと眺められ、これには後付けで驚くのだった。版画家に彼女の底辺に仕舞い込まれていたと思われるオイルペインティングを勧めた時から、こちらもあの幼少からの世界獲得の手法と馴染んでいた絵画性を再び抱きしめられるのだろうかとふと考えるでもなく浮かべていたが、水彩の水の中での顔料の滲みの現象が瞼の裏に広がるに任せると、オイルの香りに包まれた、至福の、描く絵画といったことではない、性質への積極的な関与を、画家としてではなく、「藝術と思想」を名刺の肩書きにした足で立つ個体のライフと考える。
人間はおよそその生の意識下においてであっても無意識であっても、繰り返すこと(反復)から藝術を得るのであって、余白に唐突に噴出するものではない。藝術の間主観性は、反復から促される恣意性の制御精査によって、その姿の克明度が変わる。