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 二年前に得た環境からの率直として欅の幹薪を短冊に仕立てる素材の解釈をはじめていた。朽ちた流木や落枝の並列と併行して、しなやかな細枝を家の入口に集め置き、剪定など与えてから、やや太い幹の断ち切った幹枝を併置する方法を考えて、生活の場所から離れ空間を意識することをおこなった。すると三十年前の手付きやビジョンに戻ったような心地である種の反復を再び繰り返していた。枝の形というものの、自明な自然(じねん)の物象的自立性への唯物的関心は薄れ、枝の形態の全ては、外部性によってもたらされていると認識するに至る。つまり樹木はそもそも光を求めつつ水を吸収し自らの生育の方向性を時間に委ねているだけではなく、気象や光の集積の差異や環境の変化によってのみその枝行きの形というものが決定されるわけで、生命の自立性は単に死滅していない活動だけに証左されているにすぎない。それがこちらから眺めるとなんとも潔い形にみえる。

 この形態の顕われは、植物だけでなく岩石や土塊、群生する様々な世界形態もその通りなのであって、比較すると人間の形というものは自立を錯覚する奇妙な非自然とみえてくる。

 よって盆栽などのように、「良い」「美しい」枝の形など、こちらにしてみれば、必要のないことであり、明日歩いて手にする枝のされるがままによって遺されたそれ自体の形をながめつつ、その外部性に犯され委ねた潔い寛容なる形の秘密に触れて、これをいかに目の前に置くかを考えるしか、他に方法はない。この併置は恣意と恥との闘いとも成り得て、個人的には厭きることがない。

 ホームセンターなどで端材など素材を探すことは、その破片から想像されるイメージを膨らませる意味では楽しいが、森の中には敵わない。詭弁として朽ちた製材を使うとしても、量産されている匿名的な修復材(セメント、ガラス、合板、鉄)などは、森や海など外世界収集の下位に位置づけることが、現在の戒めと成った。