相撲併行
大相撲一月場所を眺めながら、こちらの作業は力士たちの取り組みの横で行っていたなと千秋楽を迎える手前で一旦作業で散らかったリビングを片付け掃除する。事を終了したわけではなく、一月場所の追求を、内省とは異なった態度で行うためには、削ったり研いたりの作業へ寄り戻る散らかりの空間を消し去る必要がある。
逃小聡明
汚れや雑菌を落とすのではなく火照った手首を冷水で洗い流して清潔の位置に戻ると、股ぐらの反復展開はそのスケールにいつのまにか惹き込まれて小聡明(あざと)くなっていくことに気づく。ささやかに複雑と繊細をと試したつもりの邪気が当初の見切りを浸食するかに汚してしまうわけだ。眺めの把握の位置を正す為に冷水の手首の引き締まりが必要でありガリバーと蟻の目玉が同居した端座の反復へ。 walking tree 枝 […]
端的壁置
より端的に単純化させる展開「併置」として、床から壁面へと1/3ほどの仕事を移行させると、なるほど壁面という利便性を改めて感じ入る。勿論スケールと空間の仕立て、材質などに依るけれども、但し壁面だけに拘ると展開したこと自体が矮小化し、相互照応の力が失せる(意匠的な把握によって閉じる)可能性もあり、現代的な生活空間と、日常的ではない空間の両極を想定し、高さ(垂直)や広がり(水平)に対する機能弾力を更に […]
時任物譚
家外の石油タンクがすっかり雪に埋もれてしまったので、絶えず生き急いでいる母親が招集した家族会議の帰り、車のガソリン補給、塩カル鉄粉落とし洗車の際に灯油を購入し、折角綺麗になった車を汚して山に戻り、零下の仕事部屋から逃れリビングで広げ続けた制作のひとまずの片付けをしつつ、二十日に渡った制作の流れをよそ者の目で眺めてみる。
多契隣窓
「多様契約と窓」の制作をはじめる。 一寸先がみえないという創作の醍醐味を抱きよせて、静止画像の前に併置するつもりのオブジェクトの試作は、ここ数ヶ月の大股の歩みを近視眼的に検証するような手付きとなった。マケットやらジオラマのようでもあり、彫刻性と絵画性と建築性を呼び込むような自在な戯れを許して、静止画像(窓)を更に切り詰めて選ぶことになる。 採集物への注視をそのまま形にする極めて単純明快なスケ […]
遡基本現在
ほぼ50日過ぎて地震の片付けに手が届くようになり、年末には間に合わなかったが新年も明けて10日経ち、ようやく徐々に環境が片付きはじめた。片付けの合間の風呂の中でも寝転んでも考え込んだ風に頭も髭も剃らず過ごしていた。 空間に対応する広角レンズの画像ばかりを整理していた流れがあって、標準レンズで歩くことを再開すると、自分の視線との近似値に再び驚いて感じ入っていたことがあり、白い紙に鉛筆を転がしたこ […]
七光闇切態
厨子王の「復讐」が薄められた鴎外の意訳から説教節に戻り、やはりまた構造のダブルバインドとなった徹底という出来事の描写(認識)が、関わりの頓着となってこちらには浮かび上がり、厨子王の日々を手元に集めるような念となり、憑依とは異なり何処か透谷に似てくる。 山庵雑記 (1893)・三日幻境 (1892) / 北村透谷 (1868~1894)
剪定枝窓
当初思い描いていたものを見直したのは冬に展開するインスタレーションから演繹するような時間的配置で制作詳細は決定すべしと判断したからだが、同時により一層余計を省き恥を抱き込んでもよいから身体の清潔をせいぜい示す程度の意味合いを加えたいという想いが増した。古井からポール・ド・マン(理論への抵抗)へ読み移るこちらの流れもあった。季節もある。無論年齢的なこともある。 時節柄ここ数年に渡る試論めいたさま […]
光ノ思想
以前レンズは人間が考案したのだから人間的になるだろう。否なるだろうかといらぬ考えを迷わせたことが幾度かある。レンズは反人間的に光を屈折させて像を結ぶから、その結果は外世界の有り様に含まれるものにすぎないからだ。スピノザがレンズを研いた時彼も同じようなことを考えたにちがいない。人間の視覚や記憶がレンズ的であると考えたのは、残像を得た結果であって、それまで人間的な視覚と記憶はレンズに縛られたものでは […]