日々は川の流れのようにながれ去っていってしまうが今日的な道具で岸辺に寄せることができる。

いたって個人的な記録画像を記憶を取り戻すというより、今を形成している軸の所以を探索し検証する意味で寄せると、呆れる時間の経過の果てに凝視の理由よりもそれが積もった結果の瘤のような腫瘍のような精神のギザギザなヒッカカリのようなものに頷くことができるものだ。いつからか何処に居てもまるではじめての場所を観光するような目つきが取れずその意味を深く考えずに視線のベクトルの力に従って画像を残してきているが大半は知覚と検証が未処理であり、知らぬうちにそのまま残滓のような傷跡のような書きかけのメモのような不完全なまま記憶となってどこかに沈着している。

1993年の既に放棄されたJR長野駅舎に忍び込んで撮影した画像をみつめると、なるほどと何度も今の自身の了見に得心するものがある。あからさまな画像ではあるが固有な枝で成熟する光景ではあって、これを他者に共有させることはむつかしい。わたしは見たことに従っている世界従属者にすぎないと再認識する。

境界の発生 / 赤坂憲雄 (1953~) book
悲の器 / 高橋和巳 (1931~1971) book
化車 / 廿楽順治 (1960~) book
異人論―民俗社会の心性 / 小松和彦 (1947~) book
排除の現象学 / 赤坂憲雄 book