父親の日々悶々と続けられている篆書と、この三つの漢字でまとめるメモの反復が、観念の外で捩れて響いたかもしれない「場映活系」(バエイカッケイ)という開発も、個人的には慣れた響きとなったが、はじめて聴くこの音にぽかんとする人がいて当然だ。
文脈が固有な肉体的なものだから、説明は、文字の示すこととなり、だが響きはどこか遠いことのように残ればいいと幾度か思った。
速度を実践するための前倒しの取材を敢行し、編集の度に確信を得るのは、筋のようなものがまっすぐ前に見えるような気がするからだが、速度の維持には、ところどころに空いた穴に落ちるような暗い内省を今回は抱き寄せるセンチメンタルを省くように切り捨てて、季節の力を借りて猛進するしかない。ところがこの猛進は猛々しいわけではなく、実に清々しいのが救いとなって、緑の樹々の中を泳ぐような車の移動時間自体が、既に瞑想的な癒しとなっていると実感する。
湯舟に浸かって襞の内壁にこびりついた宿便を強力なカビキラーで溶かし落とす仕草だった再起動の環境から、がらりと変転し、孫悟空となったような気分がするのも子供地味ていて可笑しい。
楽観が到達を速度化するわけではない。速度の翳りが思いがけない頓挫を呼ぶこともある。環境に救われると思うのは、この環境のために動く照応の理性が都度生まれるからで、これが働くということかと今更に、農園に立つ人をひどく身近に感じながら速度の窓から眺めていた。われわれがやりはじめていることはデザインということでは全くない。そうひとり呟いて少々嬉しくなる。