選び残ったフラットな画像を正面から眺め、斜めにして眺め、このどうしようもない薄っぺらの平面を指先でひらひらさせ、自ら座り込んでいる狭いオフィスをぐるぐると首を回してゆっくり見回し、実空間の体感というものは、どうしようもないなと思っていた。
3DCGの設計図というこれも平面の概略観念の中では、記号的な思考しか追随生成しない。そこには、結露のグラスに残る指紋とか、壁の向こうから微かに響くファクトリーの機械音などを見いだすのは、ディズニーであっても簡単ではない。かといって、そうした描写には優れた写真画像は、「まっすぐな視線の凝固」という観念へ落着くことで、実は空間の喪失がぽっかりみてとれる。

窓にかかった風に揺れるカーテンに手を差し入れ、柔らかい生地の感触を得ながら、外光が手首に落ちた時、日差しの温もりが手首に広がり、ひんやりとする窓ガラスに手のひらを圧着させるようにして開けると、季節の香りが鼻腔の奥に流れ込む。その経過、こちらの身体はどのように動いていたかを振り返る事自体もむつかしい。
空間での過ごし、経験は、短い時間に、気づかぬうちに、夥しい差異が統合され且つ微分するように体感している。

最近になり、できるだけ無理をせず楽をしたいと人と会う度に愚図を漏らすくせに、こうも無駄ばかりかき寄せると眉を顰めることが多くなった。曖昧なニュアンスのまま転がす楽から離れて、いつのまにか執拗な克明へにじり寄っている。これはきっと、空間にぽつんと置いた経験の揺り戻しがゆっくり忍んできたに違いないと、でも、振り切るでもなく、そちらを眺める時間をさらに重ねている。

魚と豆から、これはどうだと、高野豆腐を選んだのは、実家の母親の料理が旨かったので、機器の送付の折に箱に入れていたからだが、随分長い時間棚の中にあった。固いものをぬる湯で戻し、絞ってからだし汁で大量に煮込んでみた。この何か禅的な食い物を、飽きもせず腹に入れては、仕事を続けていた時に、実際のこうした空間への、検証(写真)定着とは?まるで、どこかの試験問題のような問いを言葉にして、壁や鏡の表面を指で擦り、あるいは、住空間を構成するドアやフローリングなどの凡庸な規格フォーマットを、しげしげとみつめてから靴下を脱ぎ、足の指先で、擦り付けるような仕草を続けていた。

どうやら「使われている空間」に介入する手法は、雛形を使う楽をするか、空間の克明ににじり寄るか、そのどちらかしかないようだ。