教条的でないサジェストとは、原理的には放り投げた球は手から離れる。球を追いかけて拾うようなその責任回収というものは、むしろ、コレクトサジェッションの一例となり果ててまさに競合を煽り立て「教条」と化ける可能性もあり、それこそ無駄なので、キャッチャーミットからこぼれるか暴投も覚悟の、そこそこの豪速球か、あるいは首を傾げられる変化球であるべきだと思考を重ねるけれども、肩を壊した故障の多い投手としては、できることとできなことを見極めないといけない。不安が頭を擡げるのは、そこからの逃避というより、離脱、関心のはげ落ちる脱力感に蝕まれることで、最初からその不安が、結構緊張維持に一役買っているのが、なんだか可笑しい。これも自身の手持ちの少ない成熟のひとつとして認めるしかない。

「全体」といっても世界全体という大袈裟ではなく高が知れているが、考えれば考えるほど、矛盾と制限の並び順のような不具合のどうしようもなさに呆れ返る。それでも注ぎ込む水のような意識がまだ断ち枯れないのは、ある種の「明るさ」に照らされた「場所」が、こちらとは無関係にこれまでと同様さまざまに輝いている事実と、共感・共有に向ける特殊技能を研鑽する人々の存在自体であるのだろう。

ただまあ、特殊技能に専心する人間に共通した普遍のひとつとして、独我的エゴとその空間処理に関して、直情的な子供じみた(獣のしょんべん)ところがあり、それが特技能を特殊とさせる意味もあるのだが、私も含めて、なかなかギフトとその使い道は、そもそもむつかしいものだ。
そこで思考に組み込まざるを得ないと決めたのは、固有な「場所」の捉え方に加えるべきものとして、土地と気象を吸い込んでそこに住み日々の営みをしている人々であり、各店舗、企業組織でもあり、家族でもある。ということ。まずは、小学校、中学校、高校から考える。

「くまさんよ。おっぴろげて何こしらえてるんだい」
「ぽちさん、あるだけの米炊いて握り飯百個。いや千個。罪滅ぼしでさぁ」
「くまさん、なんか悪いことでもやりなさったか」
「勝手気侭にやり放題だから、せいぜいその前に、みんなで一緒に旨い飯でも喰えたらいいねと思ってね」
「そりゃあ、いい心構えだ。がんばりな」
「ところがぽちさん、みなさんいいとこ育ちの贅沢だから、清貧の飯ではなかなか満足してもらえない」
「それならくまさん、あんたのその気持ち、どこか間違ってるよ」
「そんな気がしてきた」
「くまさん、それならいっそ、腹減ったからと、奢ってもらいな」
「ぽちさん、そりゃあ、いい考えだ」