春の毒に充ちたものを喰って腹の中を吐き出して洗浄する獣たちを浮かべて、たしかに食欲の季節ではない。余白みたいな大気にあれこれ滲み出るから嗅覚が敏感になるように、視覚も尖ってくればよいが、知覚はひとつが突出すると他が萎えるのだろうか。
怠いような記憶があれこれ浮き上がる終わりとはじまりの時節だから、なにかを終わらせないといけないような、なにかをはじめなければいけないような根拠のない抑圧が靄のように膨れるから、この時期は精神が荒れるというのは判る。いっそ怠惰に淡々とした反復に浸っていたいと、数字と形態の間を行ったり戻ったりする。
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鳥というものは、本質的には、一つの接触形式だと私は思う。鳥の骨組みのうちで、もつとも入り組んでおりかつもつとも頑丈な部分は、背面の固定部ー上腕が丁度後向きに縛られたような形で固定されている背側のあの不具の部分、なのである。そして実際、鳥は、構造的には、その背側によって二つの部分、上方のおそらくは概念化も具体化もできない非空間に属する部分と、下方の意味はないがなお幾分私達にとり接近可能な擬空間に属する部分とに分けることができる。なお、ここで、擬空間というのは、鳥といえども、その骨組みにおける破片性、またその内襞における付着性を免れることができないからである。この意味では、鳥の、特にその下部の骨組みは、なによりもまず一種の残滓(例えば、岩場うあ洗い場で四散しているときの、固く形の少いその形態をみよ、)であるが、鳥の場合、これが上方の非空間=空疎をうけて、そのあたりに、間断なく迂廻性の記憶とでもよぶべきものをよびさますのである。このために、鳥の骨組みは。やや遠方からそれを想い出すとき、驚くほどに寺院建築、膿や汚物の残された粗布をその内部にもつ寺院構造に似かよつてくるのである。
ー「鳥の骨組みに関する覚書・同補足」岩成達也 (1933~) / 詩のレッスンより抜粋引用