チィチィとアラーム音が聴こえると自治体の雪かき車の仕事だと判る。このあたりの道を総動員で何台もがこの季節にはなくてはならない仕事をしてくれていることが雪の降り始めは頼もしく思えたが、こうも積雪が嵩むと脇にかき出される除雪の小山がガレージの前にその度に盛り上がるので、アラームの後の早朝はその分余計な雪かきをすることになり、肉体労働を促す警報となった。
夜中に地震かと身構えると、久しい日中の日射しとやや気温の低下が抑えられ緩んだ屋根の雪が一気に滑り落ちた音と震動だった。この繰り返しによって屋根の下には宛ら掩壕のようになり道から眺めると記憶の中に眠っていた幼少期に過ごした豪雪の村の光景が浮かんで重なった。まだ三才程度だったが樹間の傾斜を村の子供の背に捕まり木製の頑丈な箱形のソリで滑るというより落下した記憶はまだ鮮明にある。軀が羽のようだった子供の頃の精神が窓の外の積雪の斜面へ踊りだせと聴こえたが羽は鉛になちまったと愚痴る。零下十度以上の太陽が隠れた日々が続くが、けれども雪かきのシャベルを持つ指先が凍りついても降り積もっても精神は健やかでありその健やかさに促された軀もまた悲鳴をあげることが好ましい。積雪の重みに耐えかねて家が潰れればシャレにならないにしても、そうなったらかんがえればいいとどこかで成り行きに任せている。
生存を依存する環境状況の四季という変異に照応して都度の知恵を注ぐ生きる実感が目の前にある。晴れ上がった朝窓の外を眺めてから歩く。まだ暗い時間の吹雪の名残の風が数十メートル上空を時おり巡り吹いて樹々が騒ぐ下の道や路傍の白い粉の上に風と積雪の重さで千切れ折れた枝が散乱している。一見乱雑な汚れた床屋の床の毛髪のようであり片付けずにはいられない神経質な人間にとっては白の純潔が犯されたような気分になるかもしれない。ハイコントラストに落ちた枝を踏み折りつつ歩む足元に戦場となった崩壊村からやはり震災の後の光景が広がる。光景の乱雑な現実性こそが正しいみつめを促す。歩みに加えて表象を王道化している「わかりやすさ」と称する手合いの盲目、無知覚へのファッショを駆逐切断するアリストテレス (B.C.384~B.C.322)の眼差し (アリストテレスの提灯) とも云える視線の行方を放下する開発の継続を、手にした枝を振りつつ進んで考える。