で、ファインアートペーパー・プレミアムマット紙にて出力すると、なるほど微細な繊毛の葉のようなディティールとなる。マット紙では、白黒諧調もよろしいので、さてこれをこのまま直接目玉の前に置くと、幼気な乙女の白肌を放射線に晒すような気分になる。やはり、ガラスの水平面が介入すべきだが、ガラス面に印刷面が触れると、繊毛のような顔料が潰れるおそれがある。輪郭フレームの無い自立型ガラスフレームをあれこれ探すが、加工性質上アクリルのものはあるが、フルガラスではこちらの願う形がないので、大阪のガラス会社に製品化が可能かどうか質問することにした。

一度は、ガラス壁面を別途仮設用意することも考えた。可能性として消えたわけではないが、まずこちらの思う「見える形」を目の前に置いてから、再考すれば良い。
imagePROGRAF iPF5000でのA2のび出力も視野に入れるべきかもしれない。いずれにしろ、書物のページを捲るような設置が望ましい。

この夏収集したデータが50GBを超え、その整理に新規HDが必要となる。CanonのRAW現像ソフト(Digital Photo Professional)によるデータ読み込みが、デフォルトで端末毎に画像ロックされ、使い憎し。(OS差異のせいかしら?)

東京の高温多湿憎し。食欲減退。

Too Human / Xbox360 HDMI端子搭載機未だ入荷せず。

Jinより個展DMが届いていた。Sakagishi氏よりも展覧会情報あり。

追憶のハルマゲドン / Kurt Vonnegut(1922~2007)
運命の日() / Dennis Lehane(1965~)


眠れないので、一度暗くした部屋のモニターを点けて録画していたレイテの証言というNHK特集を観る。随分表現があからさまになったと目が更に冴えた。こうした番組で人の肉を喰ったという証言を放送したのは始めてではないか。おそらく番組企画担当制作者の世代交代が、見える形になって現れるのだと独りごちた。左右に偏らない歴史同時性への俯瞰の目は、歴史を辿る度に更に必要になるだろうが、こちらとしては、当時の「絶対命令」という言葉が耳に障った。軍(大本営)の絶対服従命令という司令はそもそも誤りだったとナレーターは語るが、「命令」ということ自体、昨今の我々はPC端末において動作を命令するが、ヒトがヒトに対して命令する行為、あるいはヒトがヒトの命令に従うという、なんとも哀れな麻薬のような束縛を疑わず信じていた世代に、こちらの親まで含まれるかもしれないと考えていた。
「命令」には、組織を闊達に運営する為の、高度な認識位置から下部の認識位置への教育的な意味もあるだろうが、命令される側の身に知らぬうちに染み付くのは、命令をする側の態度であり、その命令が屈辱的であればあるほど、その苦痛を耐える為に美的に変換して、逆説を肉体に取り込んでしまったかもしれないということがある。
幼少の記憶を辿ると、態度がでかいヤツには絶えず無根拠な命令口調があったような気もするし、学校でもそのような教師がいた。こちらは廊下に立たされたほうだが、あれも思えば屈辱的な服従だったといえる。罪と罰という論理で、償いを要請されることは法的な命令だが執行とその受け止めには、集団で生きる人間の義務があることは頷ける。但し、命令がまずありきという精神はどうもよくわからない。
どうもこの国の言語にはその匂いがまとわりついている。故に批評が批判(生理的嫌悪)と誤解される。
最近の組織は随分変わって、ボトムアップなどという経営効率が、命令気質のトップダウンの脆弱性を叩き潰しているが、いずれにしてもどこにでも潜んで、いつ顔を出すかわからないのが「命令」と「服従」の中毒のような気がしてきた。人間は誰に対しても、「命令」には従う必要はない。服従には碌なことが無いことは歴史が示している。豪雨のニュースが流れて、避難命令には従った方がいいかと思ったが、この国には避難勧告、避難指示しかない。なるほど。