思い返せば、家族が増え車を使う都合が優先したせいでバイクにはカバーを被せたままの状態がはじまった。数年前に車検を通したが、これも少々走らせただけで、あっという間に車検は切れた。その後税金だけ毎年支払う状態が続いた。そもそもこちらにここ数年まったく時間がなかった。ようやく時間ができたというわけではない。

同世代の人間は、高校生の頃からバイク通学をする者もいて、丁度限定解除の排気量差別免許が施行された頃だったから、入学時にでもバイク免許を取得しておけばよかったと後から何度も言われた。子犬を貰ってきても、返してきなさいと何かと子供には厳しかった親には口が裂けても、バイクの免許を取らせておくれなどと、高校生風情が生意気を言えなかったし、その必然性もなかった。その反動だったか知れないが、大学に行き生活環境がバイクに乗れと煽るような場所だったから、最初は健全に自転車で大学まで通ったがあっさり盗まれたのをきっかけに、50ccからはじめて何度も東京ー長野間を往復した。友人に大井埠頭あたりをバリバリけんか腰で走り回っていた暴走族の特攻隊長だったバイク通がいて、マフラーの改造やらタンクの色塗り、走り方まで教えて貰い世話になった。特攻隊長はラムちゃんが好きだった。ホンダCBX400にして八ヶ岳あたりでおもいきり火花を散らせて横転し対向車が来なかったので命は助かった。後輩から格安で譲り受けた中古のスカイラインをアルバイトなどに使って、あまりに危険なホンダを下取りにだしてSR400に乗り換え、それでも懲りずに友人らとつるんで大垂水などへ勇んででかけ、改造に明け暮れるバイク野郎の王道を一時過ごしたが、同時期にバイクでひとりの友だちを亡くし、ひとりが障害を背負った。SR400は結局渡欧前に売り、所帯を持った際に、カワサキの125ccのオフロードを友人の黒沢氏より貰ったけれど、これは一年かニ年でカメラに化けた。同時に再びSR400を手に入れたが、結局これは5年ほどは時間があれば転がしたが、その後15年以上も寝かせることになった。

店頭でカギを受け取り、バイクに股がって、久しぶりだなと少々不安もあったが、ギアを切れてスロットルを回せば、躯が憶えているものだ。自身で感心するほどスムーズに、むしろ最初から早速加速感を楽しんでいた。クラッチの握りにやや難がある。市街地の交差点で停車して車の流れに緩い気持ちで適応させるには時間がかかるか。でも、走り出す加速時に、クォー。メットの中で声をあげていた。暫く移動を意識的にバイクで行うことにして、躯に馴染ませることにする。この250cc程度の軽さがとても良い。近所の奥様方が、このオヤジまたひとり気が振れたというような顔つきでこちらを眺めている横を通り過ぎエンジンを切る。現実世界の体感の拡張は確かに猛烈にあった。感覚がこれほどとは、哀しいかなそれだけその真逆の時空に生きた時間が長いことを示している。ひとりにやりとするのだった。最近のバイクはライト常灯が法律化されたそうで、消灯ボタンがないので、時の経過を小さく驚き、セル始動だけの不安感からプラグやキャブに関して、大丈夫かおいとたずねると、担当のエンジニアに、最近のはよくできてますよと笑われる。

実際現実との違和感は、このところ取り組んでいる設計にもあり、頭の中の投影の図面では何も完結しない。大切なものが足りない。現実世界の空間の有り様に対峙する知覚体感想定との差異に悩んで、あちこちの実際の素材を手で振れて経巡るのだが、これもいずれ、その設計構想が実現するだろう時空においては異なった体感となる。この見切りははらりとバイクに乗るように簡単に獲得できない。指先をとにかく世界に沿って撫でて動かすしかないようだ。ここ十年机に向かっていたある種幻影テクノロジーに囚われた傾向を、どうにかして体感の伴う、違和感の解消を都度実感するフィジカルな仕組みへスライドさせようと、あれこれ苦策を呈しはじめているというわけだ。仮設という仕方なさと如何に決別して完成構造を追求できるかということに尽きる。