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日帰り出張で撮影の仕事があり、新大阪から御堂筋線で淀屋橋にて京阪電鉄TV車両に乗車し、枚方(ひらかた)にて交野(かたの)線に乗り換え、大阪と京都のほぼ真ん中に位置する交野駅にて下車。帰りは郡津(こうづ)駅まで歩き、同じ乗り換えで戻り、新幹線で駅弁を喰って眠りに落ちていた。

父親の精密検査の結果を電話で確かめ、いざと云うときはそのまま長野に戻るつもりだったが、呑気そうな声を聴いてほっとする。東京に戻ってからゆっくり眠ることもできた。

後楽園に仕事の届け物を済ませてから試験の最中の次女から飯田橋の銀座コージーコーナーにてスイーツを食べながら報告を聞き、事務所に戻る際、辿る道を変えて歩いていた。徒歩の中考えていたのは、インクの補充等の注文を繰り返し、最近時間ができれば出力している画像オブジェクトの、平らな光景の、手前に戻ってきた克明な時間というものの、カメラとかレンズとかといった納めの器から這い出てきたようなある種の「事態」に新しく遭遇する度に、強引にそこへ併置する言葉がことごとく蒸発する、現実平面に冷や汗を流すような気分の根拠だったが、ひとつ簡単にまとめることはできない。

思えば、現実を確定的に認識的に過ごしている訳でないから、過ぎ去ってくれた、記憶に残すべきでもない、意思を注ぐ必要のなかった未決定が目の前に再現することで、さあどうすると責められるような二重苦ともなる。その「事態」が、恣意から離脱してればいるほど、苦悩は増すような気配があり、まるで自責の念を忌まわしく呼び込む妖術をわけもわからず操っているような気もしてくる。

過ぎ去ったことはどれほどのものでもない。こちらがそこに居たということもどうでもいいことであるのだが、「事態」となった光景に宿る瞳という身体に、幾人もの人間が同じ姿勢で重なり合い、数百の乗算レイヤーを重ねるように黒々として、同じように吐息を漏らすような、あるいは息を詰めるような、「人」の彼方に立ち尽くしている。


夢の中、妻が二台の車を購入し、こちらもそれに気づかずに一台を購入していた。一台が同じメーカーの色違いであったので、三台は多いな、どうすると聞くと、どちらかを売りましょうというので、妻の淡い明るい色のセダンは、フォグランプやナビゲータなどのオプションをつけていなかったので、妻のを売ろうと言うと、いいわよと簡単な返事だったので意外だったが、別の一台が買い物などには便利そうな小型で、使い勝手としては小型のほうだから、セダンにはそれほど思い入れはないのだなと思った。淡い明るい色のセダンを販売元が受け取ってくれるというので運転していた。ハンドルが大きすぎて操作がなかなか難しい。今時どうしてこんなものを作って売ってそして買うのだろうと、幼児のような疑問を持ったまま坂道を下ると、後部座席に娘達が隠れており、身体に浮き輪を付けて海へゴーというので、そのまま海を目指した。海岸に着くと、浜辺に妻が待ち構えており、今は冬なんだから皆風邪をひくわよ。と言って助手席に乗り込んできたので、大丈夫だと文句を零す娘達を宥めて仕方なく売り戻す販売元のディーラーへ行くぞと大きなハンドルを回すと、ハンドルがぽろっと外れた。俺は笑うに笑えない微妙な顔つきをしていると思った。
同じ顔つきのまま、まだ暗い中瞼をこすり、即座に夢とは整理できない妙にクリアな現実感にしばらく酔うように放心していた。結局笑ったのだろうか、目尻が濡れていた。