青年が限りを尽くすように身体を指先迄重そうな金属を着飾って街を歩く姿は、男であっても女であっても時に眩しくもあり、自分の過去の断片を照れくさく憶い出すこともある。こちらは腕時計をする程度であり、その習慣も最近は始終忘れる。髭を剃るのも億劫になりつつある。地下鉄の階段から地上に出たところで、さりとて何の用事も無さそうな中年の男が、若干腰を伸ばすようにして通りの向こう側へ首を捻りやや顎を突き出した横顔の目つきは、眉間を刻むようでいて切迫したものは無い。その姿勢のまま静止した。後ろから登りきった女性が、男の立ち位置が邪魔だと言わんばかりにやや大袈裟に振り返りながら脇へ逃げて歩み去った。こちらも彼の横で、向こう側で事故か何か見えたのかと、男の視線を倣ったけれども何も無い。
自分の必要以上の静止に慌てて気づいたような素振りで男は足音を立てて歩み去ったが、階段の下から見上げ見た男の後ろ姿が、こちらには残った。
レインコートを羽織り、背中には皺なども無かった。髪には白い物が多く、定年間近とも見受けられた。
中央が緩く湾曲した橋の中央辺りで立ち止まり、運河のほうへ目をやり、菓子の老舗の小さな箱を持つ男が、やはり背中を向けて波間の上をゆっくり歩む姿を幻視していた。

絢爛な美飾の国とも喩えられるこの国の感性の、日々の現れに若干なりとも関わる者として、その装飾(見てくれ)を過剰評価する経済活動に対して、生理的に嫌悪する自身が数十年に渡って消えずにあり、これは固有な性癖なのか、世代類の特徴なのか突き詰めることもせずに過ごしてきた。だから削除なのだミニマルなのだと言葉も態度も上ずることもあり、端的でシンプルであることを求めると、相対的なバランスシート上では強引で我侭な恣意に化けてしまい、その度に困惑を重ねるしかなかった。今思えばKYと揶揄される青いストイックでもあり傲慢でもあったともいえるが、この傾向は自省の繰り返しの後でも消えそうにはないし、日ごと嫌悪の気分は高じる気配すらある。近頃の、唐突な事態変容の対処に、ただ声を荒立てて怒鳴るしかない大人の姿に、辟易する気分にも一因があるかもしれない。こちらは日々歩む度に雑踏の中にキョトンとした草食獣の目玉のような決定意思を喪失した放心が目について仕方ないのだが、予兆を汲み取ることを忘れたツケは、計り知れない程大きいことにいまだ気づかぬふりが、至上主義的な単一思考と装飾に覆われた巷では盲目的に続いている。

再び件の男と菓子の箱を浮かべて、佇みなのだと独りごちた。有り様のまま其処にあるだけでよいということだ。不思議なもので、階段を登りきり立ち止まり首を捻って遠くをみやる男の一連の姿がトータルに、佇みとして実に美しいと湯槽で思った。この美しさとは、姿形が美的であるということでは勿論ない。いかにも現実的な人の現れであり、精神と肉体の収まる器として、率直な現在の存在であるというニュアンスに近い。

試験が終わった次女が事務所に遊びに訪れ、土曜の午後を共に遊び、夕食はレストランで摂る。3月は吹奏楽のイベントが多く在り、とても忙しいという娘が、将来どんな大人になるのか見届けることができるかしらと、幾分不安になる。来週の誕生日には犬が欲しいと無理を云う、いつまでも子供のままが、こちらには喩え用の無い慰みにもなり癒しにもなり助かるのだが、時間の経過は日ごと早さを増すようだ。


確かめたいことがあり、書棚に99999 / David Benioff(1970~)を探すが見あたらなかった。長女に渡したような気もした。長野の書斎で探した記憶があり、あの時も見つからなかった。仕方がないので、アマゾンで注文した。届いてから移動の際に捲っていた。これで4回程読むことになる。ここまできて、ようやく逆上せたようなディスクールへの羨望が失せて、冷静に辿ることができたようだ。全短編に行き渡っている、訳者の説明する「ぼんやりとした諦め」のリアリティーが、ここで、「佇み」の現実感であると勝手に符号させることにした。併し今となって浮かんだ印象は、考えた以上に戦略的であり観念的であるということ。

City of Thieves

時間の経過ということを構造化できればよい。足元に並べた出力画面を見下ろして朝方呟いていた。
この呻きのような言葉は立ち止まった男の後ろ姿からきている。彼の前後の時間がなければ、佇みが生まれなかったということと同じで、光景にも僅かな時間的前後が必要ということになる。物語とはそういうものだ。ある一点からの前後の光景というトータルなボリュームを考慮すると、全く同じ過去、現在、未来という設定に似た3つの光景の併置ということになるが、ここでまた3ということに繋がってしまうので、些か忌まわしい呪いのような呪縛が、未だこってりと身に纏わりついているのかと呆れた。

男の姿を探すように書棚に手を伸ばし、散漫に似た気配を探しつつ、男の佇みの示したことは、空虚で白いような所謂「何も無い」無防備であり、おそらく年々抱え膨れている筈の諸処の事情も一気に流れ去った一瞬を、こちらはみつけた気分でもあったと気づいた。それは自己の投影でもあろうが、いずれにしろ座禅を組んで瞑想を試みて無になるより、光景に見出す方がずっとよろしいかなと思える。
けれども、佇みの発見は、見いだした者の態度となりえるのかがまだわからない。

いずれにしても、自分が関わるのは、全的な構造進化ではなく、環境の再生と人間の個体尊厳の恢復でしかないのだからと、恥ずかしいほど凡庸な言葉が漏れていた。慌てて「再生」「恢復」といった戻るべき場所はあったのかと振り返っても見あたらないのだから、進化ではなく倫理的な深化と書き留めた。
故にカメラレンズの中、人が語り始めるものは、説明的な言葉の羅列ではなく、躊躇いも含まれた起伏のある表情も許された現在の吐露としての不完全な言語体系であり、その固有なる存在の振動として言葉が紡がれたものを残さなければ、TVコマーシャルでは見慣れたような笑顔と楽観の装飾雛形の羅列となり、差別的な至上主義の前に挫折することになる。

Apple 学生デジタル作品コンテスト 傍観者 / 廣畑祐子