ーたとえば、シクロフスキーは、リアリズムの本質は非親和化にあるという。つまり、見なれているために実は見ていないものを見させることである。したがって、リアリズムに一定の方法はない。それは、親和的なものをつねに非親和化しつづけるたえまない過程にほかならない。この意味では、いわゆる反リアリズム、たとえばカフカの作品もリアリズムに属する。リアリズムとは、たんに風景を描くのではなく、つねに風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ。したがって、リアリストはいつも「内的人間」なのである。
明治26年に、北村透谷はつぎのように書いている。
ー写実は到底、是認せざるべからず、唯だ写実の写実たりや、自ら其の注目するところに異同あり、或は特更に人間の醜悪なる部分のみを描画するに止まるもあり、或は更に調子の狂ひたる心の解剖に従事するに意を籠むるもあり、是等は写実に偏りたる弊の漸重したるものにして、人生を利することも覚束なく、宇宙の進歩に益するところもあるなし。吾人は写実を厭うものにあらず、然れども卑野なる目的に因って立てる写実は、好美のものと言うべからず。写実も到底情熱を根底に置かざれば、写実の為に写実をなすのを弊を免れ難し。(「情熱」)
透谷が写実の根底にみる「情熱」が何を意味するかは、すでに明瞭である。それは彼のいう「想世界」、つまり内的なセルフの優位のなかではじめて写実が写実として可能だということである。それこそ逍遥が欠いていたものにほかならない。ー風景の発見(1978) / 日本近代文学の起源 / 柄谷行人より抜粋

人から「風景」を撮っているのですかと言われて閉口した。光景をとも言えず、現実と言うと気が振れているような響きとなる。レンズの遺した画像が示した「当惑」の意味は、目の前の世界に向かって、立つという極単純な開かれた身体の状態にすぎないが、それを含んで再び行う自身を浮かべると、観念が捩れ弛緩することもあると怖れもある。


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-「遊歩」をキーワードにして,詩学以前の渾沌状態の思考のありようを,言語と絵画の相互浸透に惹かれ,実際に「遊歩」を好み,一つの言語が抱える諸領分をジャンルをかまわず踏み破って歩いていった藝術家たちの仕事のなかに凝視める,著者渾身の文学・藝術論.時間と空間をめぐる詩的哲学発生の瞬間を犀利な知性で分析する.-岩波ブックサーチャーより抜粋
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