週末に上下を読了。このボリュームに対する速読感は他に無い。手法的にはテーマよりも、この速読させる文体の技術を評価すべき。テーマ的にも、トータルな意味での時代観が余すところなく掬われていることも、最近感じていた眺めの質と近いものがあった。2006年11月から2008年3月までの連載であるから、最近の事件に少なからず影響を与えていると思われるほど、構造的な現実感がある。(件の秋葉原の犯人らが読んでいたのではないか)極めて常識的な俯瞰の眼を感じるが、やはり三島の影響を色濃く感じる。
エピローグの部分と、明晰にする故の人物設定に、多少気になる点があったが、平野の最近作(顔のない裸体たち以降)の特徴でもある平明さは健全で、読み手に判断を任せる(バリューを重層的に現実と変わらない構造にあえてすることで、差異下に在る個体の正当性を問う形式)世界観は、娯楽的牽引力に欠けるが、これが寧ろリアリティーを構築する所以となって嫌味がない。
作家は作品という表象化で、どうかしてひとつの流れへ読み手を誘いたいと強引な歪曲を平気で犯し、共感を煽るような人物像をヒロイックに仕立て、あるいはギミックを提示し、マジシャンのようにそれを説明するようなテンプレートを多用し、これまたこの強引さに引きずられることをMのように待ち望む読者も多いが、こちらは胡散臭い稚拙な捏造、虚飾と棄てるしかないし、そのようなものには興味がない。しょうもない環境で奇跡的に構築された希有の作家による創作として、是非これを監督コンペなど海外に広く公募して映画化してほしいものだ。(Alejandro González Iñárritu(1963~),Gus Van Sant(1952~),Pedro Costa(1959~)がよい。この国の監督では駄目)事実に寄り添って、達観であろうが未熟であろうが、多様な立場の声の正当性を克明にトレースできる(共同幻想を切り崩す為の手法とも云える)能力に加えて、作家にはやはり人間的な認識の再構築を、全的世代に向けて問いかける力がある。
これはこの時代の例えば柄谷などの影響かもしれないと、年齢的に創作年が近い(平野2008/1975 : 柄谷:1978~1980/1941)「日本近代文学の起源」を書棚から選ぶ。
読むかどうかわからないが、長女に「決壊上下」アマクリ。


認識は出来事を遅延によってトレースするが、人間の知覚は、恰もアプリオリな認識があらかじめ用意さえていたかのごとく出来事の文脈を切断して、現在の落ち着きに都合の良いイメージを麻薬のように身体に巡らせる。

ー宇佐美圭司が示唆するように、西欧中世の絵画と「山水画」は、「風景画」に対して共通したところがある。それは、前者の場合、いずれも「場」が超越論的なものだという点でる。山水画家が松林を描くとき、まさに松林という概念(意味されるもの)を描くのであって、実在の松林ではない。実在の松林が対象としてみえてくるためには、この超越論的な「場」が転倒されなければならない。遠近法がそこにあらわれる。厳密にいえば、遠近法とはすでに遠近法的転倒として出現したのである。(中略)
ファン・デン・ベルクは、ルッターの草稿とモナリザは本質的に同じものだといい、さらにこうのべている。
同時にモナリザは不可避的なことだが、風景から除外された最初の人間(絵画における)である。彼女の背景にある風景が有名なのは当然だ。そえは、まさにそれが風景であるがゆえに風景として描かれた、最初の風景なのである。それは純粋な風景であって、人間の行為のたんなる背景ではない。それは、中世の人間たちが知らなかったような自然、それ自身のなかに自足してある外的自然であって、そこからは人間的な要素は原則的にとりのぞかれてしまっている。それは人間の眼によって見られた最も奇妙な風景である。
ー風景の発見(1978) / 日本近代文学の起源 / 柄谷行人より抜粋

地下鉄の中で、絵画メソドの身体性を写真が超えることは出来ないし、それをする意味などないと、「光景」から幾度か飛躍し頷きながら辿っていた。視覚が身体として絵画を受け止める「絵画性」は、絵画唯一の利点でもあり、巨大な絵画の存在理由とその意味は人間の生きる空間が要請するものではない。写真が、プリントされた上で身体性を帯びる大きさが無意味なのは、撮影の身体をくぐり抜けた形骸だからでもあり、視覚という身体にできるだけ忠実であるべきだからだ。巨大な壁面広告の写真に近寄って、間近に眺めた時、限りなく現実同等の再現が可能となったとしても、それは昆虫の身体というなんとも馴染みのない近視眼のよろめきしか得る事はできない。「距離」が大いに関係する光景であるわけだ。而も写真の身体性の大きな特徴は、暗がりの中に居て、穴のあいた「一点から覗く」という奇態が凍結されたものだということだ。