樹脂の蓋のどうしようもなさに辟易し廃棄と決め檜の蓋板にして書物片手に試浴すると予想を大きく越えた噎せるほどの香りに仰天し瞼閉じ捲物を閉じ投げて鼻腔から脳天にあるいは内蔵へ渡る樹木の精に身を任せて弛緩する。

なるほど一枚一枚がパウチされた理由に頷く。いずれ香りは萎えてしまうだろうがそれにしてもほんの少しの気づきが大いなる至福を充たすとはだから生きてると面白い。みっつよっつの種類の異なる仕事を同時に進行させる必要がありまるで学生の頃の授業時間割のような区切りで机の上と頭を切り替えて日々試験勉強のような詰め込み切迫に流されていたので、単なる香りと云えども頗る効果がありこれなら浴後熟睡へも導かれる。

眠りの淵で特異なひとつの光景を幻視することを幾夜か辿りその詳細が積もるほどに緊迫も生まれ眠りは浅かった。転がしたイメージを観念に置き換えて並べる反復も期限のあることとしたせいで、緩く続ければよかった光景の探索に見切りをつけて、だが追って反復の振幅を与えるよう集積輪郭は幾重にもぼけるようにと猶予を与える。考えてみれば決定する実行実践する潔さが凛々しいように思えた時間は身から去っており、最近は変哲のない寧ろ小さく些細な悉へ関心が向いていて、大袈裟な事大主義的な過飾が目につくと思わずそっぽを向いている。これはおそらく些末な生活する時間が思考に等価に併置されてきたからだろう。

報道や流行のリンクも切って数ヶ月が過ぎており巷の様子はよくわからないが知りたいと思わない。探したいものは探せるので苦もない。カタチ(観念)としての健全がようやく旺盛な生となりつつある。