短歌俳句などを含む詩に関する吉本隆明の概説的な二冊を湯槽で捲り終えこの国の単音の集積で繋がる言語を調べに乗せる楽曲も大方その音符にひとつひとつ当てはめているのでその他の音節言語のような圧縮がないなと思いつつ最近はじめたtwitterの所謂呟きの140文字という制限が英文だと実に短い描写となるけれども日本語だとかなり冒険もできると判り仕事の合間浮かぶ言葉を併置するパズルの感覚できっちり文字数を埋める。
2007年の企画時にプロジェクションインターフェイスに108の言説断片がランダムに投影されるシステムを2006年につくったことは、ある意味で同じ時期に開始したEvan Williams (1972~)との百匹目の猿的同時性を感じないわけでもないが、ソーシャルサービスとして開発しようとした彼のスタンスとこちらでは随分指向が異なりエッセンスを絶えず見えるようにするという忘却との闘いのようなものをイメージしていた。ツイッターのタイムラインは忘却とまっすぐ繋がる点が気にはなる。
縦書きの原稿用紙にモノを書く作家の生原稿というものを幾つか眺めたことがあるが今時では原稿用紙に万年筆で行う人間は少ない。1986年に原稿用紙を探してヒトマスにひとつの行為を記録するドローイングを500枚ほど行って(千枚を目論んだが挫折)108枚を選んだことがあり、一期一会だとか生意気にだがあれで間違いを許す寛容を覚えた。マスに点や線を加えるだけだったが続けるうちに一枚の原稿用紙が構成的な画面となり今となっては恥ずかしい代物だが、行っていることは悪い訳ではないと今でも云える。当時からそうした行為のログとしての累積されるシステムに関心があったのかもしれない。
システムがある種の制限である以上、その制約に無自覚に従うのではつまらない。批判的に遊ぶ気持ちがあれば健やかにシステムの意味を変容させながら継続できるものだ。三十年ほどにもなったか原稿用紙のドローイングを捲ると、詩文のような言葉もさらさらと降ってくる。
原稿用紙もまだまだ無限の紙であるなと探す。