「平原の町」の朴訥(なんという会話の健やかさよ)を最近の乱読から救われたように辿って深い眠りに就いた後、眉間を広げられたような爽快な体感で視力が戻りその瑞々しさをソル・ルイットのシルクに投げるとゴム毬のようなレスポンスで色彩と形態が遺跡に立つ好奇心(あるいは未知に対峙した無邪気)を与えてくれる。補色バルール併置がある達成の自由を示すのだから。
NYで若い時期を過ごしてコレクションした数在るうちから気に入って額装をお願いしたFLAT FILEのモリヤくんが香川生まれの奥さんと一緒に(あぁ、松山を心地よく憶いだしつつ時間が過ぎてから坂出をも加え企画展の作品搬入搬出に尽力した真面目で男前の後輩の顔を浮かばせた)運んでくれた。奥さんのコトリという名前の子供服のショップはご主人の工房兼ギャラリーの横に在り仕事も順調なようでそのコトリという名前の動物よりも「コトリ」とモノを置くような静かな仕草の音をこちらは勝手に想起する時古い家屋を再生利用する彼らの営みに小津の映像が欧州の田舎風の香りとなって漂うようだった。
生存の残り時間が至福であると背後から声をかけられたような夢をみたのは泥酔の混濁の中だったかもしれない。まだ生まれたばかりの人生と成熟の波瀾万丈を比較して残りの至福の量は未熟に軍配があがると弱く想念の中考えるでもなく思っていた。至福の残量を推し量るような日々となったがどこか未成熟であるが充ちている至福の溢れた輝きのようなものを彼らの近くに寄り添えば片鱗を浴びることもできる。シルク作品からもそのような示唆、あるいは旅へ誘う気配があって、此処がこの静的な場所自体が旅でもあると頷いた。