頭の悪い監督の「悪魔を見た」DVDをアマクリしてしまい大いに酷く反省。悪くないモノを観た後だっただけに悪しき制作の細部がくっきりみえるのだった。
このところ日々映像編集を淡々と、けれど集中を逃すとやり直しを繰り返すしかない、「今」の判断、決定の時間の隙間に、他者の決心、決定を飲み干すのは実に爽快で、且つ自身への戒めにもなるので、集中の休息としてマッカーシーと映画を交互に差し挟むように過ごしていた。
映画がはじまり俳優が一言二言台詞を呟いた時点でヤバいなと即座に感じた。それほど明快な駄目さぶりには呆れるしかなかったが、このミステイクの理由をここに加え延々と挙げ連ねることは何か意味があるかと考えたが、巷に軟体動物のように生きれば、ミスをミスとも思わない生き方もあるだろうし、怒鳴ること自体を誤解される倒錯の自動構築もどこかで勝手に行われる予感もあるので、無視して割愛。
つくりごと(フィクション)への歩み寄りには、利己的であろうが利他的であろうが、軟体であろうが猛獣であろうが、性質、傾向、場所とコンテクストに依存するしかないので、様々であっていいが、決定的な間違った認識、あるいは思想欠如しているその集金的な構造、あるいは煽動的な奇想にひれ伏した手法は、勘違いを助長し時に犯罪を越える危険性がある。これも壊れた世の常か。ニーチェの善悪の彼岸をモチーフにしたとは笑った。調べると脚本は主演俳優によって持ち込まれたとのこと。阿呆が揃って悪事を働いたの図。
この苛立ちと東城の画像は無関係なのだが、同日の出来事なので併置。
花蔵、FLAT FILEにて、展示打ち合わせを彼とする。蔵という空間は輸出する「固有」の意味合いで有用だなど会話に加える。彼もまだ未熟だが今回で視野が鍛えられることがあれば幸い。個展開催中の玉野女史を紹介し、彼らの出会いが思わぬ空間を切り開く可能性もあるかと、親にでもなったような目つきで青年らを眺める。
ゲンタ、ガリオとも電話で展示の簡単な見通しの確認を行い、こちらも時期的に全体をチェックしなければいけない段階であるなと既に月末だと今更に慌てる。
テキストサブジェクトは、勿論Kim Ji-Un監督 (1964~)の無能と倫理の欠如、勘違いを示すけれども、同時にそのテイタラクに金を支払ってしまった自身の加減も含まれている。事前にキャリアを調べればわかったことでもあった。
アルマーニのロックグラスゲットで気分修正。さて走ってきましょか。